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社長のひとりごと

何のために

私たちはよく「何のために-----」と言います。何のために勉強するの?何のために働くの?何のために生きているの?何のために生まれてきたの?などと私もよくそのての発言をしています。私の場合ですと経営者をしていますから、社員に「あなたたちはいったい何のために、会社に来て働くのですか?」という問いかけを朝礼や会議などで頻繁にしています。この発言をするときの私の真意は、「仕事を通して世の中に貢献する。仕事を通じて人間的成長を図る。このことが人間としての喜びであり、そこに幸せというものがある」ということを社員が理解し、又そのような考え方を持ってもらいたいという所にあります。実際、私はそのように学び、考え、そのことを信念として持っています。しかし、最近少し考え方が微妙に変化してきました。変化といっても上述の私の信念が変わったわけではありません。

手前味噌で恐縮ですが、より深く成長してきたのかもしれません。変化したことを以下に記します。

 1、自分の信念を社長だからといって社員に押し付けるということは良いことなのか。

 2、“何のために----”という思考の根底には、何かをするから何かを得られる、または何かを得るために何かをする、という悪く言えば打算的なものがあるのではないか。

 3、その得られる何かというのは、結局のところ「自分の幸せ」ではないのか。

 4、幸せとは、何かをしないと得られないものなのか。

こんな疑問とも迷いともつかない思いが、最近はずっと頭の中で浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶということを繰り返しています。

先日、テレビある映画を見ました。生まれながらにして手足に障害を持って生まれてきた12歳位のインドの少年でした。映画を見ているかぎりとても貧しそうで、少年が遠くにある学校に通うため、お母さんが作ったと思われる手造りの車椅子に、その少年の弟二人が泥んこ道を苦労しながら何時間もかけて、兄を乗せて運んで行くのです。そして映画の最後のほうで、撮影スタッフでしょうか、その少年に「君は将来、なんになりたいの?」と尋ねます。少年は答えました。「人間は何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいく。だから将来、僕のような障害を持っている人を直せる医者になりたい」と。私は驚きました。いかに釈尊生誕地のインドとはいえ僅か12歳の少年が「人間は何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいく」と言ったのです。そして、医者になりたいとは言いましたが、幸せになりたいとは言いませんでした。

 学べば学ぶほど、自分がいかに無知であるかを思い知らされるようになってきました。私の誤った解釈かもしれませんが、仏教では、人間は生まれながらにして、もう既に救われている。生きていること自体でもう既に十分に幸せなのだ、とこう教えているような気がしてきました。もしそうであるなら、世の中に貢献しないと幸せになれないという考え方は、あまりに断定的で短絡的に過ぎるのではと思うようになってきたのです。

厳しい修行で有名な比叡山天台宗の千日回峰行を行う修業僧は「何のために、そんな命がけの修業をするのですか?」との質問に対して「私たちは何のためにという意味で修業をすることはありません」と答えると聞きました。ただ修業をする、それだけのことであると。私のような凡夫は、あれだけの修業をするのは、それを成し遂げたときの喜びや、あるいは名誉といったものが得られるからではないのかと、誠に無礼な邪推をしてしまいます。人間は常に何らかの対価(見返り)があるから行動すると思いがちですが、どうやら、そのような思考を持ち続けることは決して褒められたことではない、というのが少し分かってきました。

こんな話を妻と夕食をとりながらしています。妻は私に言います「お父さん(私のこと)人に親切にするのは、何かのためではないのよ。そこに困った人がいるから助ける。ただそれだけのことよ」続けて言います。「あの人には貸しがある。だからこれぐらいのことはしてもらって当然、と考えるのは大間違いと思うわ」

妻は普段からこうも言います「年老いた親が、自分たちは子供の面倒をみてきてやったのだから、今度は自分たち親をみるのは子供の務めである、それが親孝行というものである、という考え方も間違っているわ。なぜなら親は子育てをさせてもらったということで、子はもうすでに充分過ぎるほど親孝行をしているのよ」という話をよくします。たしかにそう思います。

色々と書き連ねましたが、どうも私は、長年のビジネスマン生活の弊害か「何のために」という一見もっともらしい発言、発想に魅入られてしまっていたように思います。つまり、「何のために」の先には「何が得られる」という厳しく言えば打算というものがあったのだと思います。幸せを得ることを是とし、そのために行動することを是としていましたが、人間は生まれたときから、いや、母のおなかの中にいるときから、もうすでに幸せなのですから、何も幸せになるために特別なことをする必要はないのではないでしょうか。妻が言うように、そこに困った人がいれば、助けてあげる、いや、助けさせていただくというくらいの気持ちを持って生きていければと思います。とは言うものの、「言うは易し、行いは難し」であります。皆さん、応援して下さいね。

それにしても映画に出ていたインドの少年の言葉がずっと頭に残っています。「人間は何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいく」私はこの言葉で、また救われました。

 

最後の発句経62番を記して終わります。(友松圓諦先生訳著 発句経より)

「我に子等あり 我に財(たから)あり」と おろかなる者は こころなやむ

されど われはすでに われのものにあらず 何ぞ子等あらん 何ぞ財あらん


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