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社長のひとりごと|神戸市で健康住宅、外断熱、ソーラーサーキットの冬暖かく、夏涼しい家を建てる工務店

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社長のひとりごと

~衛門三郎~

2019年2月

 昨年11月に会社の旅行で松山の道後温泉に行きました。松山は亡父の出身地でいとこが大勢います。松山いとこ会と銘打って、ほぼ毎年のように松山に行っていますが、有名な石手寺(四国八十八箇所、51番札所)には一度も行ったことがありませんでした。今回は社員がとってくれたホテルが、たまたま石手寺に近く初めて参拝しました。お遍路の元祖といわれる衛門三郎(えもんさぶろう)の再来伝説ゆかりのお寺です。ここで衛門三郎の伝説を少し長いですが、ウィキペディアより下記に転載させて頂きます。

『天長年間のころの話である。伊予国を治めていた河野家の一族で、浮穴荏原郷の豪農で衛門三郎という者がいた。三郎は権勢をふるっていたが、欲深く、民の人望も薄かったといわれる。あるとき、三郎の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢をしようとしていた。三郎は家人に命じて追い返した。翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れた。八日目、三郎は怒って僧が捧げていた鉢を竹のほうきで叩き落とした。鉢は八つに割れてしまった。実はこの僧は弘法大師であった。三郎には八人の子がいたが、その時から毎年一人ずつ子が亡くなり、八年目には皆亡くなってしまった。悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気がつき、何と恐ろしいことをしてしまったものだと後悔する。三郎は懺悔の気持ちから、田畑を売り払い、家人たちに分け与え、妻とも別れ、大師を追い求めて四国巡礼の旅に出る。二十回巡礼を重ねたが出会えず、何としても大師にめぐり合いたい気持ちから、今度は逆に回ることにしたが、巡礼の途中、阿波国の焼山寺(八十八箇所 十二番札所)の近くで病に倒れてしまう。死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れたところ、三郎は今までの非を泣いて詫び、大師の望みはあるかとの問いかけに、来世は河野家に生まれ変わり人の役に立ちたい、と託して息を引き取った。大師は路傍の石を取り“衛門三郎再来”と書いて左の手に握らせた。天長八年十月のことという。 翌年、伊予国の領主、河野息利に長男の息方が生まれるが、その子は左手を固く握って開こうとしない。息利は心配して安養寺の僧に祈願してもらったところ、やっと手を開いた。その手から“衛門三郎再来”と書かれた石が出てきた。その石は安養寺に納められ、後に“石手寺”と寺名を改めたという。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっている。』

 この伝説では強欲な衛門三郎が弘法大師に為した行為により、天罰のごとく子供が次々と8人も亡くなったとなっていますが、私は弘法大師がそのような無慈悲なことを願うわけがないと確信しています。昔は子供や大人が若くして亡くなるのは普通のことですから、きっと、偶然であったのではと思います。

そんなことよりも石手寺には、この寺の住職が記されたのであろう小冊子が置いてありましたが、その内容に私は強い自戒の念を掻き立てられました。内容は、「ある日、門前に老人が倒れていました。家に入れようとするも、あまりの悪臭に汚いものをつまむようにしていた。そこへ住職の師匠が来られ、抱きかかえて家に連れ込んだ。ふと思った。“私こそ衛門三郎である”何のことはない。今まで見下していた強欲非道の衛門三郎とは実は自分自身であったのだ。・・・中略・・・衛門三郎は実は私やあなたである。だれが、汚いどこのものともしれぬ旅の者を介抱するであろうか」全くその通りです。私たちは衛門三郎です。どこまで行っても、衛門三郎と同じく、自分や自分の家族が大事なのです。そしていつも損得勘定で生きています。このことをもって罪があるとは言えないまでも、真理の世界に向かって成長していく姿であるとは言い切れないと考えます。衛門三郎は全てを捨てて遍路の旅に出ました。彼の人生は弘法大師が現れたため、家族と富のすべてを失いましたが、最後は幸福の光に包まれていたに違いありません。

| 19年02月21日

~見返り~

2019年1月

 妻からこんな話を聞きました。以前は自治会に入っていたのに今は入っていない人(自治会費を支払わない人)の言い分です。「会費を払ってきたが、それに見合うだけのことをしてもらってない」これが退会理由だそうです。これを聞いて私は唖然としました。そもそも自治会はモノやサービスの提供を受けるために入るものではなく、自分たちの街を少しでも良くしよう、そのために自分たち自身が集まりボランティアで活動する、そういう組織だと思います。月々200円の会費に対して見返りがないと主張し退会する、さびしい生き方をしている気の毒な人たちだと同情せざるを得ません。

 この講の2016年10月に“損得”というタイトルでも記しましたが、モノゴトを損得のみで判断し行動する生き方は間違いなく幸せとは正反対の生き方となってしまうと思います。損得だけの世界と思われるビジネスの世界でも、損得だけで行動すれば間違いなく破綻することになります。まして、家族、友人、近隣、その他のプライベートな関係において、その関係性を自分に見返りがあるかないかで判断するというのは間違っていると思います。それこそ大いなる損失です。

 仏教では人間には皆だれでも、仏性(仏になる性質、仏になっている状態)があると教えます。仏様は与えることはあっても、見返りを求めることは絶対にありません。人間にも仏様と同じ心があるというのです。有難いことです。例えば、外で人に道を聞かれたとき、その道を知っていれば、ほとんどの人は快く、その人に道順を教えます。その時、教えた人は見返りを求めるでしょうか。そんなことはありませんね。電車で老人や妊婦に席を譲ってあげた時、その人は見返りを求めるでしょうか。そんなことは絶対にありません。反対に譲ってあげたその人が、なにかしら良い気分になるのではないでしょうか。道を教えられた人や、席を譲ってもらった人から「どうも、ありがとう」などと言われようものなら本当に幸せな気持ちになれるはずです。「有難うとう」言いたいのは私のほうだ、きっと、そう思うはずです。

 松原泰道先生は著書“つまずくことが多い人ほど、大きなものを掴んで成功している”という長いタイトルですがその中でこう書かれています。「生きる目的とは他(ひと)の役に立つことです。人間はそのために生まれてきたのです。自分のためではありません。なかには自分の人生は自分のものとおっしゃる方がいるでしょう。もちろんそれはその通り。ですから自分の人生を通して、いかに他のお役に立つかを考えればいい。なぜならあなたはひとりで生きていくことは出来ません。他との縁があって初めて人生を育むことが出来るのです」この著書のタイトルには成功と記されていますが、この成功は経済的に裕福になるとか、社会的名声を得るとかという意味ではありません。自分に与えられた天命を知り、その天命を全うするため怠ることなく精進し、見返りを求めず、愚直に生きていくこと、それを成功と呼ぶのです。私もこの成功を求め精進します。応援して下さいね。

| 19年01月22日

~親孝行~

2018年12月

 ここ数年、一番変化を感じるのは皆さんも同じと思いますが、介護事業者の車が目につくことではないでしょうか。超高齢化社会ですから当然と言えば当然のことですが、それにしても多いですね。65歳以上の高齢者人口は2042年まで増え続け、高齢化率(総人口に占める割合)は2065年が38.4%でピークに達するそうです。(内閣府調査による)こうなってくると、政府のお役人や政治家でなくても、これから先、老人たち(私も含め)はどうなるのか、この国はどうなっていくのか、ととても心配なるのは私だけではない筈です。

 話は変わりますが、生き物の世界では先に死んでいく親に対して、子が親孝行するということはありません。唯一、人間だけが親孝行を美徳として教えられ実践してきました。しかし、種の保存ということ考えれば親の面倒をみるよりも、子の面倒をみることが明らかに優先です。子も親も両方みることができればいうことはないのですが、動物にはその能力が備わっていないのか親の面倒をみるものはありません。人間もこの地球上に現れたときから、きっと何十万年も動物と同じであったと思います。親孝行、つまり“孝”という概念は孔子や釈尊が説いたように、この僅か数千年前に現れ、それまでは他の動物たちと同じであったはずです。そうでなければ人類は滅亡していたかもしれません。ところが数千年前に地球上に文明が興り、一部に裕福なものが現れた結果、孝が説かれるようになったのです。裕福なものは、いずれは死んでいくとしても、自分が老いた後、その最後まで子にみてもらい自らの安楽な死を望んだのでしょう。安楽な死、これは裕福なものでなくても人間であれば、それを望むのが普通です。しかし、間違ってはならないのは誰もが安楽な死を望むであろうが、それを子に求めてはいけないということです。つまり親孝行は確かに美徳です。だからと言って親が子に対して親孝行を求めることは絶対にやってはいけないということです。世間では子に対して「育ててやった恩があるだろう。その恩を返せ」という人がいるそうです。とんでもない間違いです。親が子を育てるのは当たり前ですし義務でもあります。しかし、子が親の面倒をみることは義務ではありませんし、本能にも組み込まれていません。そうでないと人類にとしての種が絶えてしまうからです。だから釈尊や孔子は教えとして孝をあえて説いたのです。勘違いしないでください。親孝行するなと言っているのではありません。それを親が子に求めては、いけないと言っているのです。親孝行は素晴らしい美徳です。私自身、両親や先祖への感謝の念は忘れたことがありません。ですから自分なりに親孝行したつもりです。両親はもうだいぶ前に亡くなりましたから、どう思っていたか分かりませんが、多分喜んでくれていたのではと思います。

 子は親から受けた恩を忘れてはいけません。しかし、その恩は親に返すのではなく、子がいる人は子に返す。子がいない人は、周りの人に返す。もし、親から受けた恩などないと考える人でも、この世に生まれ出たことは親に感謝しなければならないと思います。なぜならこの世に生まれてきたということは自分の意思だと思うからです。その自分の意思を尊重し生んでくれた親には感謝してもしきれないほどの恩があります。人間に生まれることは本当に奇跡です。そして何よりも幸せなことなのですから。

| 18年12月22日

~覚悟~

2018年11月

雑誌致知の9月号に井本勝幸氏と鬼丸昌也氏の対談が掲載されています。その一人の井本氏のプロフィールを雑誌の言葉を少し略してそのまま転載します。“昭和39年生まれ、東京農大卒、日本国際ボランティアセンターでソマリア、タイ、カンボジア国境の難民支援に関わる。28歳で出家。朝倉市の四恩山・報恩寺副住職としてアジアの仏教徒20か国を網羅する助け合いのネットワークを構築。平成23年より単身で反政府ビルマ少数民族地域へ。UNFC(統一民族連邦評議会)コンサルタントを経て、現在、日本ミャンマー未来会議代表取締役を努める。”結論から言いますと、この井本氏の命がけの活動が現在のミャンマーの停戦を実現させたのではないかと思います。

雑誌致知の対談に登場するひとは,大体が死ぬような体験した方が多いのですが、井本氏のそれは群を抜いています。まず一つは内戦状態のミャンマーに行くのに、お釈迦様もそうしたように、「全部捨てる」と地位も財産も家族も捨てたのです。もっとも奥様には説得し、最低限生活できるお金は残したそうです。そして紛争地帯を移動する車がものすごい銃撃を受けるのですが、運転手が引き返そうというのを押さえつけ、前進していくのです。さらに、タイのチェンマイに置いていたUNFCの事務所がタイ警察に潰されて、海外からの支援が途絶えてしまうのですが、その時、武装勢力のリーダー達が弱音を吐くと、彼は「軍人のくせになんだ!その態度は!ここで諦めるんだったら死のう。俺も一緒に死ぬ。それなら潔くっていいじゃないか」と言って、彼らの前に短刀を差し出したのです。そうしたら「井本、もう1回やろう」とリーダーは言ったそうです。私には絶対に出来ないことばかりです。

家族を捨てることも、銃撃される中を進むことも、短刀を差し出して、ここで一緒に死のう、

と叫ぶことも。この対談のタイトルは“まず覚悟ありき”サブタイトルは“やむにやまれぬ思いからすべてが始まる”です。私にもある程度の覚悟はありますが、ある程度です。本当の覚悟と、ある程度の覚悟の違いは、この井本氏のようにすべてを、命までも捨てる覚悟があるのか、ないのか、この違いだと思います。対談の中の一節です。「・・・普通の人って、これは自分がやるべきことかもしれないと気付いても、リスクを先に考えますよね。でも、人間いくら命が大事だと言っても、いずれは死ななければならない。それなのにほとんどの人はリスクのほうばかりに目がいって、やめる理由を探し始める。私が仏典から学んだことの一つは、自分がこれだと思ったことに対して、それがいかに困難であっても、やめる理由を一切探さないように努めることでした」井本氏がミャンマーの現地で目にしたのはミャンマー国軍によって村人たちが情け容赦なく殺され、若い女性はレイプされ、逃げようとしてもタイ軍に押し返されたところを撃ち殺される、というこの世の地獄でした。井本氏はこの現実を見て覚悟を決められたのでしょう。多くの日本人はこのような地獄を直接見ることはありません。しかし、私たちのまわりにも、本当は自分がやるべきことだと気付いていることは必ずあるのではないでしょうか。でも、しんどいから、つらいから、苦しいから、儲からないから、誰かがやるだろうから、とやらない理由を探し出し、結局やらない。 

やって死ぬのか、やらずに死ぬのか、決めるのは私たちです。

| 18年11月18日

~心配~

2018年10月

 妻はよくこう言います。「心配していたことって本当は、ほとんど起こらないよのね。でも、まったく心配していなかった予想外のことは結構よく起きるのよ」その通りです。

 こう見えても私は元来の臆病者で心配性なのです。ですから生まれてこの方、人生を振り返ってみても心配で心配で思い悩んだことが色々あったように思います。しかし、そのほとんどは忘れてしまっています。覚えているのは多分5~6歳の時ではなかったかと思うのですが、死ぬことがとても恐ろしくて、死んだらどうしょう、と心配で悩み続けていた記憶があります。小学校に入ったら、その悩みは無くなっていました。代わりにクラスのいじめっ子と恐ろしい先生に叩かれるのではないかと心配し悩みました。その心配も中学生になると無くなっていました。その代わりに、入った水泳部の先輩とトラブルになり、どこかで待ち伏せ攻撃されるのではと心配し悩みました。その悩みも剣道部に転部することによって無くなりました。(多分、剣道部の主将が間に入ってくれたのではと思います)高校生の時は、彼女がいないくらいで、特に大きな悩みも心配事も無く平穏な高校生活を送っていました。ところがある日、何の授業で何があったのかは忘れましたが、先生に丸めた教科書で思いっきり頭を叩かれたことがありました。全く予想外でした。今の時代でしたら確実に体罰と言われても仕方のない行為ですが、当時は普通に先生が生徒を叩いていました。

 妻の言う通りです。5~6歳の時は死ぬのが怖くて悩んでいましたが、有難いことに、まだ生きています。小学校、中学校で心配していたことは何一つ起こらなかったのですが、高校ではまったく心配していなかったことが起こりました。くどいようですが妻の言うことは真実です。大学に行き、社会人となって今に至っていますが、ずっと同じです。私はいつも心配し続けてきました。けれど、その心配ごとが現実になったことは多分一度もないと思います。その代り心配していなかった全く予想外のことは次々と起こりました。

こんなことがありました。今でもはっきりと覚えています。前職で1億8千万円で受注した鉄骨4階建てのマンションですが、鉄骨建て方の時に鉄骨に下に一列、基礎が無かったことがありました。監督に呼ばれて現場を見たとき、目の前が真っ暗になりました。逃げ出したかったです。なぜなら施主は鉄骨の本職でしたから。数日後、殴られることを覚悟して施主に事実を報告しました。意外にも施主は「やってしまったことはしょうがない。その方法で間違いなく設計強度が出るのなら、それでいって下さい」と言って下さいました。私は数日間、眠れないくらい悩みました。そして施主から「一から建替えろ」と言われることを心配し続けました。しかし、その心配は徒労に終わり、そして、心から施主に感謝しました。

D・カーネギーの有名な著書「道は開ける」は悩みに関して多くのことが記されています。

その中の一節です。「いずれにしても、明日のことは配慮すベきである。細心の注意を払って計画し準備すべきである。だが心配するには及ばない」この本を読んだのは7年前です。でも中身はすっかり忘れていました。事前の準備をしっかりやれば何も心配することはないのです。なぜなら心配していることは、まず起こらないからです。イエスは言っています。

「明日のことは考えるな」と。

| 18年10月18日

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