社長のひとり言
「幸福な王子」 2009年12月15日
2009.12月
日曜日の出勤途中はいつも午前7:45からの「聖書と福音」というラジオ番組を聴いています。私はクリスチャンではありませんが、4,5年前からこの放送を聴くようになりました。
12月13日の放送ではオスカー・ワイルドの童話「幸福な王子」の物語を話されていました。皆さんも子供の時に絵本などで読まれたことがあると思います。以下にウィキペディア(ネット上の百科事典)よりそのあらすじをそのまま転載しておきます。
『ある街の柱の上に幸福な王子の像が立っていた。両目には青いサファイア、腰の剣には真っ赤なルビーが輝き、身体は金箔に包まれていて、心臓は鉛で作られていた。とても美しい王子は街の人々の自慢だった。渡り鳥であるが故にエジプトに旅に出ようとしていたツバメが寝床を探し、王子の像の足元で寝ようとすると突然上から大粒の涙が降ってくる。王子はこの場所から見える不幸な人々に、自分の宝石を上げてきて欲しいとツバメに頼む。ツバメは言われたとおりルビーを病気の子供がいる貧しい母親に、サファイアを飢えた若い劇作家とマッチ売りの少女に持っていく。ツバメは街を飛び、両目をなくした目の見えなくなった王子に色々な話を聞かせる。王子はツバメの話を聞き、まだたくさんの不幸な人々に自分の体の金箔を剥がし分け与えて欲しいと頼む。-----------------やがて冬が訪れ、王子はみすぼらしい姿になり、南の国へ渡り損ねたツバメも弱っていく。死を悟ったツバメは最後の力を振り絞って飛び上がり王子にキスをして足元で力尽きる。その瞬間、王子の鉛の心臓は音を立てて二つに割れてしまった。みすぼらしい姿になった王子の像は心無い人々によって柱から取り外され、溶鉱炉で溶かされたが鉛の心臓だけは溶けず、ツバメと一緒にゴミ溜めに捨てられた。---------------時を同じく天国では、下界の様子を見ていた神様が天使に「この街で最も尊きものを二つ持ってきなさい」と命じ、天使はゴミ溜めに捨てられた王子の鉛の心臓と死んだツバメを持ってくる。神様は天使を褒め、そして王子とツバメは楽園で永遠に幸福になった。』
私も話しを聴いている間に子どもの時に見た絵本の一ページを思い出しました。番組では伝道師(牧師さんかも)の方がキリスト教的な立場からか、この王子のことを全人類の罪を一身に背負って十字架に架かったイエス・キリストに見立てて、その自己犠牲を讃えておられました。また多くの人は、人のために命を投げ出すような行為を見たり聞いたりすると、思わず涙するものである。それは神様が人間をそのように創られたからであるとも話されていました。ビジネスの世界に身を置く私にとって、キリスト教の幸福とか愛とか自己犠牲とかを学ぶこと聞くことは、生きていく上でこの上もなく救いになります。それで、この番組を聴くようになったのですが、クリスチャンではないだけに、どうしても理解できない部分があります。
幸福や愛の定義は難しく誰か著名人の言葉か文字を借りなければ、自分の力では表現できません。ですからこの講ではそのことを論じるつもりはありません。ただラジオの伝道師さんは王子をキリストとイコールのように言われていました。このように言われてしまうと私のような凡人には王子が何か遠い偉大な存在になってしまいます。私は人は誰でも幸福の王子になれると信じたいのです。王子に近づきたい、王子のようになりたいと願い、少しずつでも実践する人はすべて幸福の王子であると信じたいのです。人は誰でも幸福の王子になれるし又そのように神様は創られたと思います。"人間は愛そのもので、愛を実践するためこの世に生まれてきたのです。"(飯田先生の教えより)でもなぜか人はなかなかこれが出来ません。私を含めほとんどの人は、まず自分が----------という思いが勝ってしまいがちです。毎日が反省と後悔の日々ですが、いつの日にか生きていくことと、仕事することと、愛の実践がイコールになる日を夢見て学び、少しずつ実践していきます。皆さんも応援してくださいね。
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松山にて
松山にて
2009.11月
法事のため松山に行ってきました。法事が終わった後は(はじめから決めていたことなのですが)私を含め12人のいとこだけが別のところに集まって、従兄弟会の名目の元、一泊かけて宴会をしました。場所は松山城の東南東約10kmにスーパー銭湯があり、そこは道後温泉ほどの全国的な知名度はありませんが、地元の人はちょくちょく利用する温泉で、宿泊施設も整っているところです。私は時間がなくて見ませんでしたが坊ちゃん劇場というのもあり演劇などもやっているそうです。松山市は何といっても人口50万人の中堅地方都市です。日曜ということもありましたが、結構大勢の人が利用していました。
私の亡父は松山の出身で大正8年生まれ、8人兄弟姉妹の3番目です。なぜか父だけが大阪に出てきました。ほかの叔父、叔母は全員松山市かその近郊に住んでいました。子供の時から、私は父が自分の生い立ちのことを話すのをあまり聞いた事がありませんでしたが、唯一繰り返し話していたのは、わが祖先は恐れ多くも桓武平氏の一族である。平家が源氏に追い詰められ壇ノ浦で滅亡する時に、一部が松山に逃げのびた。我々はその子孫に当る、としきりに平家の落人という言葉を口にしていました。しかし、それは多分事実ではないと私は推測しています。最年長のいとこの話によると、私の曽祖父は明治になり、山から松山城下に出てきて、洋服の仕立て職人をしていたのではないか、祖父が洋服の職人であったことが何よりの証拠ではないかと言います。(もっとも私は祖父が仕事をしているところは一度も見たことがありません)私の推量ですが、明治になって山から出てきたということは、まず当時は人口の約9割が農民であったにもかかわらず、田畑がなかったということ、田畑なしに山で生活するには木こりか猟師か山賊をするか位しかないのではと考えるからです。鎌倉、室町、江戸と氏素性に大きな価値感を持つ封建時代に、平家の末裔が木こりや猟師をするとはどうも考えにくい気がします。私の妻も、私と結婚する前に何度かお見合いをしたそうですが、男性は皆、自分は侍の子孫であると聞きもしないのに言ったそうです。日本人の古い世代はまだまだ氏素性にこだわりがあるのでしょう。決して悪いこととは言いませんが、そのようなもので人を推し量るとしたらそれは明かにに間違っていると思います。
それでも自分のルーツを探ることは、それなりに意義あることだと思います。人は皆、自身の性格・人格形成に両親の影響を最も大きく受けます。その親もまたその親から強い影響を受け人間形成されます。そうか、親父はこういう環境で育ったのか、また叔父叔母にこんなことを言っていたのか、と自分の知らない自分の親が育った環境や、どんな親元(祖父母)で育ったかを少しでも知ることは、自分の親を一人の人間として理解し肯定することに繋がることと考えます。そしてそれは、結局のところ自分自身を肯定することにも繋がるはずです。欠点だらけの自分だけれど、自分はこれでいいんだと自信を持つことにもなります。自己肯定感の低い人間は、とても傷つきやすく攻撃的になると、前にこの講で述べましたが、もし読者に思い当たるところがあれば、自分のルーツを調べ、両親の生い立ちを知って下さい。私は今回の旅で今まで知らなかった亡父の良き行いを知ることが出来ました。洋服職人の極貧家庭に生まれた父が家族のため、一人故郷を離れ大阪に出てきた、その思いの一端を少しですが感じ取るとともに、父に対して感謝の念しか持たなかった私が、自分のなした多くの良い行いを私達子供に一言も言わなかった、わが父を今は誇りに思っています。
フルムーンツアー
フルムーンツアー
2009.10月
5日間、妻と北海道旅行に行ってきました。某旅行社のフルムーンツアーです。申込の決め手は、飛行機に乗らないこと、すべて禁煙車、新幹線のグリーン車、などもありましたが、最大の決め手は、妻が北海道に一度も行ったことがなかったことと、仙台より苫小牧までの特等船室による船旅に憧れたことでした。船で一泊したことはいままでも何回かありましたが、すべて2等船室のじゅうたん敷きのザコ寝か、良くて4人部屋の2段ベッドでした。子供の時に父の実家の松山に行ったときなどは、船室、甲板とも寝るところがなくて、甲板の救命ボートの中で寝たこともありました。今回の船旅は、レストラン、カラオケボックス、大浴場、劇場での映画、マリンバとピアノの生演奏などもついており、少しリッチで優雅な気分にさせてもらいました。船室はビジネスホテルのツインのようなものですが、なんといっても窓から大海原が望めるのは、船旅の醍醐味であると久々にワクワクしていました。ツアーのスケジュールも苫小牧港着が午前11時ですから、朝からバイキングを腹いっぱい食べ部屋に戻ってまた朝寝と、まさに大名気分でこれから先の北海道の旅に想いをはせ、妻と二人で幸福感に浸っていました。
しかし、4泊5日のこの旅行、天国気分でいられたのも、ここまででした。予めスケジュール表を頂いてはおりましたが、苫小牧から稚内までのバスと列車、午後7時過ぎのホテル到着、翌朝5時起きの6時集合、6時半頃出発の礼文島行きのフェリーの2等船室、観光客で超満員です。ザコ寝も出来ません。天国から地獄とはこのことでしょうか。特等船室での旅への想いはバブルのごとく消えていきました。たしかに、礼文島や利尻島の風景は本州では見ることの出来ない、なにか異国を感じさせるものがありましたが、その強行スケジュールに辟易して2日目にして、私はもう家に帰りたいと思い始めました。
私たち夫婦は私がまだ学生の時に、ヨーロッパツアーで出会い、長い長い春を経て結婚しました。以来、この年まで旅行には行ってはいましたが、ツアー(他人との団体旅行)には参加したことがありませんでした。妻ともども実に35年ぶりのツアーでした。未熟というか、経験不足というか、考えが甘かったのでしょうか。それでも、妻が礼文島の風景にいたく感動して喜んでくれたことが唯一の救いでした。その妻も翌日、花の咲いていない富良野にまたまた強行スケジュールで着いたときは、猛烈に不機嫌になっていました。花好きの妻にしてみれば、花のない畑の風景などはネタの乗ってない握りずしのようなもので、見るに耐えないものであったかもしれません。しかし、よく考えてみれば富良野といえばラベンダー、でもそのラベンダーが10月半ばまで咲いているわけがない、ということにどうして気付かなかったのか、やはり経験不足だったのでしょう。
そんなこんなでずっと不満を持ち続けた私たち夫婦ですが、ほかの15組ほどのツアー仲間のご夫婦が列車、バスの中で私達のような不満を口にしているのを見たことがありません。唯一、妻が登別温泉のお風呂の中で聞いたのが「こんなのまだましよ、カナダに行った時なんか、朝食に腐りかけのリンゴが一つとかび臭いパンが一切れ出ただけよ」と70歳位のご婦人が話されていたそうです。ということは旅の経験豊富な方たちは、今回の旅行に結構満足されておられるのではと推察しました。この話を聞いて私は自分の未熟さに気付きました。この不景気に北海道旅行に行けることだけでも、どんなに恵まれたことか。ほとんどのご主人の寡黙で、背筋を伸ばして、席はいつも通路側、この方たちを紳士と呼ぶのでしょうか、この方たちからも学びました。
不満を口するのは見苦しい、男は黙って歩くのみ、とこんな想いが今頭をめぐります。不機嫌の妻も登別温泉の窓からの紅葉を眺めてからは、どうやら機嫌が直ったみたいです。
大津和で 2009年9月 1日
大津和で
2009.9月
大津和(伊川谷)に住んで足掛け20年になります。その前は明石の松が丘で約2年、伊川谷町有瀬で約2年、西宮で約2年、豊中で約半年、その前は大阪市内の実家で独身でした。有瀬は分譲マンションに住んでいたのですが、一戸建てに住みたくて土地を探していました。幸い良い情報があったので、マンションを売りに出しました。すぐに買い手がついて喜んだのも束の間、肝心の買うほうがダメになりました。不動産でもプロを自称していましたがこの有様です。妻はマンション売却契約の手付金を倍返ししてでも、解約したらと主張しましたが、私は業界の人間としてそんな不実なことは出来ないと結局、売ってしまいました。当然、家族4人の住むところが必要です。時間もありませんでした。そこで松が丘の一戸建てを借りて住むことになりました。昭和63年の出来事でした。賃貸とはいえ80坪の敷地は、庭もあり4歳と2歳の娘たちの子育てにはこの上もない住まいでした。(ただし、家はプレハブ工法の築古年で隙間だらけ、夏の暑さと、冬の寒さと雨漏りには閉口しました)マンションに住んでいた時と、庭付き一戸建てに移った時では、妻と娘たちの喜びようは比較のしようもありません。仕事人間の私にとってはマンションの夏の涼しさと、冬の暖かさは捨てがたいものがありましたが、庭で遊び、家で歌う妻と娘達の幸せそうな毎日を見られることは何よりの幸せでした。
そんな松が丘での幸せな日々もバブルの到来によって、大津和に移さなければならなくなったのです。もともと、妻は持家志向が強く、私に今住んでいる松が丘の家を買い取ることは出来ないのかと言っていましたが、バブルによって不動産価格が異常なほど高騰し始めていたため、自分の経済力では到底不可能でした。当時は西神ニュータウンの神戸市の分譲地が安く何度も申し込みましたが、ことごとく抽選に外れました。そんな時に、大津和で46坪の分譲地があることを知り、当時の相場よりも500万位安いこともあり、買うことにしました。その時の心境はなにせバブル上昇期ですから、とりあえず大津和に住まいを確保しておいて、その上で西神ニュータウンを申し込み続ければ、きっとそのうちに当選するだろう。その時、この大津和の家を原価より高く売って西神ニュータウンで家を建てればいい、本当にそう出来ると信じていました。今から考えればまったく甘く、不純な発想としか言いようがありません。そこで家づくりを始めるのですが、気持ちが西神ですぐにでも又、新築出来ると思い込んでいますから、あまり身が入りません。妻がここはこうしたらとか、あそこはああしたらとか色々前向きな提案をしてくれたのですが、現在と比べて家づくりの知識も幼稚でしたし、私はこの家はすぐに売って、西神で本格的に建てるからあまりお金はかける必要はないと、妻の意見をほとんど採用しませんでした。夫として、人として大いに反省しています。そして家が出来ました。
あれから、20年が経ちました。バブルは崩壊し、西神ニュータウンでも、西神南ニュータウンでも土地は余っています。しかし、相変わらず大津和に住んでいます。今となっては、歩いていけるところに居酒屋、すし屋、ラーメン屋、うどん屋、カラオケ屋、散髪屋、コンビニ、本屋、ペットショップ------のある大津和が気に入っています。住めば都、とはよく言ったもの、娘たちが成長し大人になって、巣立ったこの家は、私の宝物です。ただ一つ、こんなことになるのだったら、20年前、妻の提案を全部聞き入れてやればよかったと後悔しています。もし、もう一度チャンスがあれば、その時はすべて妻の考えどおりの家づくりをしてあげたいと切に願っています。
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明石駅で 2009年8月20日
2009.8月
先日、明石駅のすぐ近くを車に乗って信号待ちしていました。対向車線に1台の車が停車し、助手席の女性(かなりの高齢)が降りようとしているのですが、どこか身体が不自由なのでしょう、なかなかさっと降りることが出来ません。後ろから来たタクシーが速くしろと言わんばかりにビッー!とクラクションを鳴らします。運転席の女性(中年に見えました)が、その高齢の女性になにか言っているのが見えました。恐らく二人は親子なのでしょうか「お母さん!早く降りて!」と言ったようにも思えました。
悲しい出来事ですね。わずか、30秒か1分が待てないのでしょうか。信号に引っかかったと思えば、どうということではないと思います。人は車の運転をする時、人が変わったように攻撃的になることがあるといいます。かく言う私も若いころはそうでした。別に急ぐ理由もないのに、スピードを出して、前の車を追い越して喜んでいました。お恥ずかしい限りです。タクシーの運転手さんはお客を乗せていたので、そのお客から急ぐように言われていたのかもしれませんね。でも、年老いた身体の不自由な人を、急がせなければならない何か正当な理由があるのでしょうか。私はないと思います。約束の時間に遅れそうになった、親が危篤で死に目に間に合わない、一刻も早く病院に行きたい、そんなことは理由にならないと思います。以前この講で、時間を守ることの大切さを述べたことがあります。時間を守れないのは、そのことを、その人を大切に思っていないからだ、と書きました。そのこと、その人を大切に、大事に思えば必ず余裕を持って出かけるはずです。松下幸之助氏はどんな人と会うときでも必ず、約束の20分前には着いていたと聞いております。たしかに、親の危篤は約束できません。でも、困っている人、弱い人を押しのけてまで、死に目に間に合うことがそれほど重要だとは思われませんし、危篤のご本人も望まれていないのではないでしょうか。約束の時間に遅れたために、大切なお客様を怒らせてしまい、大きな商談をふいにした、その原因は、車から降りようとしていた女性にあるのでしょうか。そうではありません。原因は自分自身にあるはずです。人は思い通りにならない時、往々にして他にその責任を転嫁しがちですが、すべて自分の責任と考えるか、飯田先生のように"思い通りにならないことこそが人生で最も価値あること"と考えるほうが前向きに生きて行けそうなそんな気がしました。
22日に会社で初めてOBのお客様ご招待バーベキュー大会を催しました。お客様には、至らぬことが多すぎてお詫びの言葉もありません。ご案内のご通知発送後、4日目には満席の通知を発送するはめになりました。この紙面を借りましてお詫び致します。来年もやる予定をしています。何卒よろしくお願い申し上げます。
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