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2011年09月アーカイブ

私心2011年09月24日

~私心~

2011年8月

 

 この講で私は時々偉そうな悟りきったようなことを書いていますが、そんなに偉そうなことを言えるほど立派な人間ではありません。迷うことも、悩むこともあります。

聖書の中の有名な言葉に「汝らの中、罪なき者、まず石をもて」(ヨハネ福音書)があります。これはイエスがユダヤ教の律法学者に「この女は姦淫の罪を犯した。律法では石打の刑で殺せとなっているが、あなたはどうお考えか」と姦淫の罪を犯した女を連れてきて尋ねた。その時に発せられたイエスの言葉です。「あなたたちの中で、今まで一度も罪を犯したことのないものだけが、この女に石を投げなさい」という意味です。この言葉を聞いた律法学者たちは一人一人と、その場を去っていった。そしてイエスはその女にこう言われたという。「私はあなたを罰しない。もう行きなさい。今後はもう罪を犯さないように--------」

私はクリスチャンではありませんが、この話が昔から好きでした。

平成7年に独立開業しましたが、会社経営について学んだことは一切ありませんでした。そこで中小企業家同友会という勉強会組織に平成8年に入会し、以来ずっと学び続けています。本当に多くのことを学ばせて頂きました。その中に労使関係をまとめた本があり、こう書かれています。「経営者である以上、いかに環境が厳しくとも、時代の変化に対応して、経営を維持し発展させる必要があります」この経営を維持・発展させるという一言に、社長の責任、責務は集約されていると思います。今、私はこのことに何の疑問も持っていません。また動機はともあれ、一度、会社を興し、そこに人が集まり、お客様、取引先との関係が生じれば、これは私企業といえども、公(おおやけ)の行為だと知るようになりました。公ですから当然、私欲、私心をもって、ことの判断をし、行動することは許されません。

私は会社を始めたころは、先に述べたイエスの言葉にできるだけ従うことが、正しいのではないかと考え行動してきました。なぜなら、私とて罪無きものではないからです。およそ人間で罪(罪を定義するのはとても難しいが、「良心的でなく、愛もなく、前向きでない行動をとること」とする)の無いものは誰一人としていないと思います。ですから、人は決して人を責めてはいけない、と信じていました。ところが会社には色々な人が社員として、取引先として存在します。人は人を責めてはいけないと考えるあまり、人が犯した怠慢からくるミスや、仕事に取り組む誠意のない姿勢にも、責めてはいけない、その人が自ら気付くのを待とう、見守ろうと、このような対応が多かったように思います。しかし、結果、その人たちが過ちに気付き、自らの行動をよい方向に変えていったという例は皆無でした。このままではいつか会社は立ち行かなくなる、と思い、人は人を責めてはいけないという考え方より、会社を維持、発展させなければならないとの考え方を優先するようになりました。人を責めてはいけないという考えは、会社経営という公の行為の前では、悲しいかな私心と言わざるを得ない、そう思うようになったのです。それから、会社は少しずつですが良い方向に向かい始めました。

また、人を責めることと、人を教え導くことの違いについても少しずつわかってきました。

間違っているかもしれませんが、人が人を責めるというのは、どこか感情的で私欲な部分があるように思います。それに対して、人に教え導くということは、どこまでも冷静で私心や打算を捨て、本心から、その人のためを考えて言動しなければならないことだと思います。しかし、私にこれができているかといえば、まだ出来ていません。たぶん、うまくいって半分くらい出来ればよいかと思います。いずれにしても、大切なことは、人に対して教えたり導いたりするのであれば、まず自分自身が私心を捨て、公に近い人間になる必要がある、このことではないかと思います。公に近い人間になるなど、これは一見、難しそうにとらえがちですが、そんなに難しいことではありません。ひたすら「私心を捨てろ、私心を捨てろ---------」と念仏のように唱え続ければ、誰でもできます。そして、本当に私心を捨て、世のため人のためにという想いがわき起こるとき、人はだれでも幸福を得られるのではないかと、そう思うようになりました。


追伸: 司馬遼太郎の小説"竜馬がゆく"のなかで竜馬は「こちらに正義があり、相手に非があるからと言って、相手を言い負かすようなことをしてはいけない。そんなことをしても、言い負かされた相手は、こちらのことをただ恨み続けるだけで、自分の志を成し遂げるためのわざわいにしかならない。」とこんなようなことを言っていたと記憶しています。竜馬にとっての志とはまさに公(おおやけ)であって、相手を論破するなどという行為は、単なる自己満足に過ぎない、といえるかも。小説の正確な表現は覚えていませんが、昔から私はこの一節が大好きです。今は、少しこの意味が分かってきたところですが、本を読んだ頃はまだ若く、ただ単に人は人を責めてはいけないと、単純に思い込んでいただけのことかもしれませんね。

 

追伸2:愛犬アリスが2度目の脳梗塞を起こしました。まったく歩けない状態で、水も食べ物も受け付けません。このたびは、もうダメかなと考え、ネットで動物の葬儀場まで調べていました。ところが、この数日、少しずつ復活してきました。水も飲み、食べるようになりました。それとともに、よろよろですが、少し歩けるようにまで回復しました。妻も私も娘も大喜びです。動物病院のM先生のお蔭と感謝しています。有難うございました。

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