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社長のひとりごと

~賢善精進と虚仮~


2017年 4月


 この講を始めてから11年が過ぎました。最初のころは日記のようなものでしが、いつのころからか、良いことを書かなければという気持ちが少しずつ湧いてきました。そして今、「外に賢善精進の姿を現し、内に虚仮を抱く」という言葉を知りました。この言葉の解釈は色々ありますが、私は山本佛骨先生の考え方をとります。つまり、その人は表面的にはいかにも賢そうで善人であり、しかも努力家である、しかしその内面はというと虚仮(うそ、いつわり、愚か、計らいの心)に満ちている、という解釈です。この言葉を知った時、まさに私自身がそうではないのか、と思いました。人を愛さなければならない、信じなければならない、許さなければならない、と言いつつ、自分自身の心の底には、どこか完全に人を愛しきれない、信じきれない、許しきれないものが、わだかまっているのです。人間は本当に凡夫のみです。絶対に完全にはなれません。にもかかわらず、外に賢善精進の姿を現すということは、より人を欺くということになってしまうのではないでしょうか。人はどこまでいっても、自分や自分の家族が一番大切と考え行動するものです。そして少しでも自分が他よりも有利な立場に立ちたい。得をしたい。そのためには人から良く想われたい、とか、たとえそれが不当なことであっても他から何らかの利益を得たい。

このように考え行動しやすいものです。しかし、このような行為に一体どんな意味があるのでしょうか。真理の世界では、これは私のもの、あれは貴方のものという所有の区別はありません。それが証拠に人間は、何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいきます。これは絶対の真実です。この世で得た立場、地位、財産、名誉などは本当の真理の世界では何の価値もないものであると思います。

 そうは言いつつも、煩悩に苛まれ、煩悩から抜け出すことのできない凡夫である虚仮の私が生きていく道とは一体なんであるか。いつも悩んでいます。一つだけ言えることがあります。こんな私でも、家族があり、仕事があり、家もある、おまけに最近少しがたついてきたとはいえ、そこそこ健康な体もある。有難いことです。そうです。私は今も昔も幸せに生きているのです。本当に有難いことです。そんな私がやるべきことは、頑張って幸せになろうではなく、もう十分幸せなんだから頑張ろう、です。私の幸せは私の力で得たものではありません。私が今、生かされているのも私の力ではありません。大いなる偉大な力によるものだと信じています。分からないまでも、自分がこの世に生まれてきた意味を考えれば、少なくとも賢善精進を現すために生まれてきたのではないことは確かです。虚仮の心を持つ為でもありません。賢善精進を現すのではなく、賢善精進にひたすら励むことだと思います。そしてできればその賢善精進の姿を外に見せなければ、なお良いのではと考えます。つまり「外に虚仮の姿を現し、内に賢善精進を抱く」このような生き方が出来れば最高ではないでしょうか。宮沢賢治の詩「雨にも負けず」の最後の一節が浮かんできます。「・・・みんなにでくのぼーと呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず、そういうものに私はなりたい」この様に生きていければと願って止みません

| 17年04月29日

社長のひとり言

~才能~

2017年 3月

「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という有名な言葉があります。私もこの言葉が好きで、つらい時、苦しい時に想いおこして頑張っています。しかし、励ましの言葉ではあっても、現実には誰もがこの通りに実行することは出来ません。愚論かもしれませんが、私に100mを10秒で走れと言われ、厳しい練習をいかに積み重ねようとも、それを実現することは絶対に不可能なのです。この言葉の意味するところは、本当は努力すればできるのに、それをやらないことへの戒めである、と理解するべきです。そしてこの種の言葉は人類の歴史始まって以来、世界中に蔓延し永続しています。それだけ人間は努力をしたがらない、しんどいことはしたくない、できれば楽に生きていきたい。という想いが備わっている悲しい動物なのです。私もその一人です。

 人間はダーウィンの言うように微生物から進化して出来上がったのか、はたまた神様がお作りになられたのかは分かりませんが(私は神様がつくられた。何か偉大な力によってつくられたと信じています)人それぞれ、異なった才能を持っています。実はこれはとても素晴らしいことで、もし人間が皆同じ才能を持っていたら、現在のような文明は存在していないと思います。人は往々にして自分と似た性格、才能を持った人間を敵視することがあります。敵視という言葉は少し過激に過ぎましたが、相性が悪いということはよくあります。それはきっと人間の上昇志向(お山の大将になりたいという感情)のなせる業ではないかと推量します。

 少し自慢になりますが弊社の行動指針に「才能は人のため、決して私物化致しません」というのがあります。これはキョーセラの稲森和夫先生の著書からヒントを得、作ったものです。ところでアドラーは性格は自分がつくる、と言っています。しかし性格は自分がつくっても、生まれつき備わっている才能は、自分ではつくることは出来ないと思います。そしてその才能の中に、あることに対して努力することへの努力がいらないという才能を持っている人がいます。そのあることとは仕事であったり、スポーツであったり、趣味であったり、家族への愛であったり、人類への愛であったりします。また、人を信じたり、許したりすることも努力なしに出来るという才能を持った人々も大勢います。このような才能を持つ人たちが、その才能を、人間が持つ上昇志向を自分自身の上昇ではなく、自分のまわりの人たちの上昇を志向し努力すれば、「為せば成る」のではと考えています。私たちは皆、天から素晴らしい才能を与えられています。その才能を自分自身の利益のためだけに使うのではなく、自分の周りの人たちのために、思いっきり使ってみたいものです。与えられた才能は自分が努力して勝ち得たものではありません。つまり、その才能は自分のものではないのです。だったら、人の為に使いましょう。そのほうがもっと楽しい人生を送れると思います。悔いなく生き、悔いなく死んでいく道の一つではないかと信じて止みません。

| 17年03月28日

社長のひとり言

~働く意義~

2017年 2月

 14年前に亡くなった父は私が社会人になった頃、私によくこう言っていました。「人の倍、働け、倍、働け」と。それに対して若く生意気な私は、「倍、働いたかて給料は倍にはなれへんやん」と言い返していました。人の2倍働いて、2倍の給料がもらえるのだったら、働いてもいいが、それが保証されないのであれば、倍も働くなどばかばかしい、大損である、とさえ思っていました。ところがそんな私が今は経営者となって、だれに言われることもなく、倍も3倍も働いています。当時いかに若いからといって、私の言動や考え方は、思い出してもあまりに未熟で幼稚であったと、ただただ恥じ入るばかりです。

 この講では、そんな私が、目先の損得のみにとらわれた人生は結局のところ、幸せとは程遠い世界に陥ってしまうことになると度々、記してきました。会社の経営理念にも「・・・・働くことの意義を学び人間として成長していきます」と明記しています。これは社員には働く意義を自らが考え、自分自身でその答えを見つけて欲しいと考えたからです。ですから、私がそのことについて説法したことは一度もありません。立場を利用した価値観の押しつけは、相手の反発を招くだけであることを私は経験を通して、よく知っています。それに、あらゆる事象について、その意義を見出すことは至難の業です。たとえ出来たとしても、それは人それぞれです。その人の経験、学び、性格、環境等によって見つける答えは違ってきます。しかし、一般的な答えとして、私は働くことの意義を以下のように捉えています。

1、お金を稼ぐため。そうしないと衣食住に困るから。

2、社会と関わっていくため。社会と絶縁し一人で生きていくことは苦痛である。

3、その仕事を通して社会に貢献するため。それは喜びとなる。

4、仕事は思い通りにならないことの連続です。それを乗り越えるたびに成長する。

私は人生に終わりはあっても、仕事に終わりはないと考えています。なぜなら人が成長するためには仕事は不可欠だからです。そして人間の成長にも終わりはありません。死ぬ瞬間まで成長し続けなければならない。だから死ぬまで仕事をしなければならいと考えるのです。

(ここでいう仕事とは会社で働くことだけを言っているのではありません。家事や地域活動、病気との闘いなどあらゆる活動を意味しています)私は若い時、働くことの意義を上記の1、としか認識していなかったのです。ですからサラリーマンにとっての幸せは、少しでも小さな責任で、少しでも楽をして、少しでもたくさんの給料をもらうことである、と本気で思っていました。しかし、そんな理不尽が続くわけがありません。こんな考えでは、しんどいこと、苦しいことの連続に堪えられなくなるのは当然の帰結でした。結局は逃げるように転職しました。 今の私にとって働く意義の大半は上記の3,4です。大きく成長するためには、上述の反対が必要です。少しでも大きな責任を持ち、決して楽な道を選ばず、頂ける給料に感謝する。仕事は思い通りにならないことの連続です。悩み、苦しみ、努力するからこそ成長できるのです。そして、それを乗り越えたときだけに、真の喜びを感じることが出来るのだと信じています。40数年前、父はそれを私に教えてくれていたのでした。

お父さん、ありがとう。   感謝 合掌

| 17年02月23日

~性格~

2017年1月

 今年も1月に恒例の大学時代の友人四人が大阪で集まりました。昨年のこの講でも記しましたように,もう47年の付き合いになります。これだけの長い年月、毎年の交流が続いているのはひとえにO君のお蔭ですが、最近どうもそれだけではないのでは、と考えるようになりました。もちろん学生時代から仲が良かったことは言うまでもありませんが、それにもまして、まず4人が4人とも交際を続けようという強い意志があったこと。その結果それぞれが我を通さず譲り合ってきたことも大きな理由の一つだと思うようになりました。人間は往々にして親しい間柄であればあるほど、わがままを言う傾向があります。私もその一人です。とくに家族に対してはそうであったと思います。若いころは会社でもそうでした。家族はわがままを許してくれても、会社はそういう訳には参りません。結局その組織にいられなくなります。良い人間関係を継続するためには自我を抑え、相手を否定せず、できるだけ譲る、この三つが必須であうように今は思っています。我々四人は47年間、まさにこれを実行してきたと自負できます。1月の大阪ミナミの寒空の下、6月の再開を約して別れました。
 ところで、この講で何度か登場しているアドラーですが彼はこう言っています。「あらゆる人の悩みは対人関係の問題に帰結します。自分はどのような人間でありたいか、と考える際には、必ず周囲の目を気にしているのです」(小倉広著、アドラー人生に革命が起きる100の言葉より)100%ではないにしてもだいだいその通りだと思います。人間は一人では生きていけませんから、自分の言動が相手にどうとられるかを意識するのは普通のことで、反対に相手がどう思うとも構わない、自分は言いたいことを言い、やりたいことをやるというのでは、まともな社会生活を送ることは難しいでしょう。ところが昨今の自己啓発本には、他人を気にするな、他人がどう思おうとも我が道をすすめ的なものがたくさん見受けられます。そもそも我が道を進むということは、他人の協力なくして絶対にありえないことです。どんな時でも、他への配慮を忘れてはいけないと思います。しかし、そうは思っていても私など凡夫の域から出ることのできないものにとっては、ついついそれを忘れ、配慮を欠いた言動で他を傷つけてしまうことがあります。そして、それは私の性格からくるのもですが、同じくアドラーは性格のことを“ライフスタイル”と名付けそれはいつでも変えることが出来ると言っています。同本ではこう記されています「ライフスタイルとは生き方のクセであり、どのように行動すればうまくいくかという信念である。・・中略・・そしてそれは自分の意思で決めたものだから、いつでも変えることが可能だ」私たちは性格などなかなか変えられるものではない、と思っています。しかしアドラーの言うように自分たちの性格が、生まれつきのもではなく、生まれた後、自分の意思で決めたのであれば、変えることは可能となります。そして、その性格がどう行動すれば自分は上手くいくか、という計らいの心からだけで創られたものとしたなら、それは畢竟、他との摩擦から逃れることは出来なくなるでしょう。私たちは生まれてきたものの使命として、この性格(ライフスタイル)を、より良い方向に変えていく努力を怠ってはいけないと思います。これは性格だから、しょうがないという考え方は決して持ってはいけない、今はそう考えるようになりました。

| 17年02月03日

社長のひとり言

~大晦日に思う~

2016年12月

 庭の寒椿の花が咲き始めました。満開にはまだまだというのに、もうメジロのつがいが花の蜜をついばみにやってきます。寒椿の紅い花びらにメジロの淡い緑がつつまれていきます。心和ませてくれる一瞬の風光です。  

今年もあともう僅か、いろんなことがありました。楽しかったこと、苦しかったこと、おかしかったこと、つらかったこと、悲しかったこと、うれしかったこと、しんどかったこと、くやしかったこと、感動したこと、驚いたこと、本当にいろいろありました。でも、終わってみれば家族も、会社の人もみんな大きな病気や事故に会うこともなく、健康のうちに終われそうです。本当に有難いことです。そして忘年会でたらふく飲んで、翌日、二日酔い、もう酒は飲まない、と幸せな嘘をついている私などは、まさに幸福の極みと言えるでしょう。

ところが、新聞やニュースでは毎日のように殺人事件や悲惨なテロ、戦争の惨禍などを伝えています。いまこの瞬間にも、罪のない人々がテロや戦争の犠牲になって死んでいきます。なんと恐ろしいことでしょう。そしてそれは私たちの国、日本でも70数年前に起こりました。戦争の惨禍で何百万人もの人が命を落としました。亡くなった母は戦時中と戦後の食べ物のないことの話をよくしていました。ご飯粒を粗末にすると目がつぶれるよ、と教えられ私は育ちました。しかし、その私は今、しゃもじに付いたご飯粒を食べることなく放置し、最後はバリバリになり捨てています。罰当たりなことです。そうです。私たち(?)は罰当たりです。平和であること、命があること、健康であること、家族がいること、仕事があること、食べられることに何一つ感謝せず、やるべきことをやらず、思い通りにならないと不満を口にし、他責にするのです。凡夫である私はその代表であり、言行不一致の典型です。反省し、改めなくては生まれてきた意味がありません。

今、世界中で起こっている不幸な出来事に対し、私は何もできません。ただ同情し、自分に起こらなくてよかったとエゴむき出しの幸福感に浸ってしまうだけです。こんな自分が時々嫌になります。世界の不幸を口にし、自分の周りを自分の思い通りにしようとする、その作為的エゴにも嫌悪します。仏教では、自分のものなど何一つない、私の身体、私の家族、私の家、という考え方は罪である、と説きます。考えてみればそうかもしれません。何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいくのですから、この世で得たモノ(財産や地位)などたいした価値などないのかもしれません。ならば自分の思い通りにしたいということも、意味のないことで罪と言えるのでしょうか。凡夫の私にはよく分かりません。ただ自分の○○とか、私の○○という観念を出来るだけ捨て、私たちの○○、あなたの○○、あなた達の○○という気持ちを持ち続け行動すれば、ひょっとすると少はましな生き方が出来るのではないかと思います。失敗ばかりで反省すべきことの多い一年でした。未熟者ですが来年は、もっと精進し言行一致を目指します。応援して下さいね。

| 17年01月06日

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