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社長のひとりごと

~是非もなし~

2017年 6月

以下は部下と課長のやり取りで、有名な笑い話です。
部下「課長、スイマセン、例の商談、失注しました」
課長「どうしてそんなことになったんだ。99%確実と言ってたじゃないか!」
部下「何を言っても言い訳にしかなりませんから」
課長「失注の原因は今後のためにも、きちんと把握しなければならない。説明したまえ!」
部下「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・で失注しました」
課長「言い訳するな!!!」と怒鳴る。
 部下は最初、言い訳はしませんと言いましたが、課長が説明しろと命じたため説明しました。すると課長は「言い訳するな!」怒りました。課長はなぜ怒ったのでしょうか?
 織田信長は本能寺の変で、家臣の明智光秀に討たれました。そのときに発した有名な言葉が「是非に及ばず」です。この信長の言葉の意味するところは色々と解釈がありますが、私はこの様に考えています。確かに光秀謀反の原因は自分(信長)にある。しかし、いまさら、こうなった理由や原因を考え追及したところで何になる。この結果を受け入れ、ここで死ぬまでだ。いいも悪いもない。これが「是非の及ばず」となったのだと思います。ここで大事なことは、二つあります。信長はまず、“自分に責任がある“と認めたこと。もう一つはその結果を受け入れ、責任をとる。つまり切腹する→死をもって償うということです。もちろん、あの場面では信長は切腹しなくても、討たれたと思われます。しかし、切腹しようが討たれようが、その意味するところは同じであると思います。
 課長が怒った理由はこうだと思います。部下の発言には、信長のような心意気も責任感もなかったのです。失注の原因は自分にはない、自分なりに努力はしたが、原因はほかにあると責任転嫁したのでしょう。およそ人間が関わって、ある結果が出た時、その人に何の責任もないということはあり得ないことです。どんなことにでも関わったその人に責任の一部があるのです。自分の努力不足を棚に上げて、他に責任を転嫁するような人間は、はっきり言って最低であると断言します。本当に限界まで努力した人は決して言い訳をしません。そして、万一、最悪の結果が出たとしても「是非に及ばず」と腹をくくるのです。今の時代は切腹までする必要はありませんが、人間にはそのくらいの覚悟が必要だと思います。もっとも、本当に限界まで努力すれば、まず九割がたは良い結果が出るということを皆さんはご存じのはずです。私も知っています。
 ところで、私は妻から「言い訳名人」と言われているのです。偉そうなことを記しましたが、家では妻の言う通りです。きっと妻に甘えているのでしょう。これも言い訳ですね。差別的かもしれませんが、男子たるもの、どんな時も言い訳をしてはいけません。そしてどんな時でも、自信をもって「是非もなし」「是非に及ばず」と言えるくらいの努力と精進を続けることが、人間に課せられた使命ではないかと思います。どんな結果が出ようとも、それはそれで構わないのです。それによってその人の人間的価値が上下することは絶対にありません。早く妻から「言い訳名人」と呼ばれることがなくなるよう、もっともっと精進します。

| 17年06月29日

~生成発展~


2017年 5月

 つい最近、弊社を4年前退職した社員が急死しました。彼はセレクトホームで約6年間働き、そして独立しました。とても優秀な人でした。誕生日が私と同じでしたので、彼の歳のことはよく覚えています。私より15歳下でした。一昨年、同じ経営者仲間で3歳下の方が、やはり急死しました。人は必ず死ぬと分かってはいても、やはり身近で年下の方が亡くなられるのはショックです。飯田先生は全てのことには意味がある、死ぬことにも意味がある、と言われます。私にはよく分かりませんが、多分そうなのでしょう。しかし、残された遺族にとっては、たとえどんなにりっぱな意味があろうと、長寿を全うしたのでなければ、生きていてほしかった、と思うのが人情であると思います。
 死んだら人間はどうなるのだろう。過去多くの宗教者、哲学者、思想家、科学者たちが考えてきました。基本的に人間は死を恐れます。だから死後も天国や極楽があるからと宗教は教え、そこに救いを求めます。私もその一人です。2008年、「生きがいの創造」(飯田史彦著)という1冊の本をきっかけに、生まれ変わりのことを学び、以来ずっと信じています。飯田先生は死を「体から離れて生きる」と定義され、いろんな事象(事実)や自身の体験などから魂(意識体)は不滅であると確信されています。生まれ変わりに関しての著書はイアン・スティーブンソン、ブライアン・ワイス、エリザベス・キュブラー・ロス、キャロル・ボーマン等々、数多くあります。これら著書に触れることで私の生まれ変わりに対する考え方は確固たる信念にまで成長しました。そして私は救われました。
(この講でも2008年9月、2012年2月、2012年9月に彼らの著書の内容を一部記しました。是非、HPでご覧下さい)その後、緑内障になったことをきっかけに、今度は仏教の勉強を少しずつするようになりました。とても難しく、凡庸の私ではなかなか理解が進みませんが、そのなかに「空」という思想があります。この世の中のものはすべて「空」である。つまり目に見える全てのモノに実体はない、という教えです。私はこう考えています。飯田先生が言われる通り、死んだあとの世界こそが本当の意味での真理の世界であり、私たちの本当の居場所なのです。この世は魂のレベルを成長させるための道場のようなものである、というものです。だから何度も何度も生まれ変わって、学びを深め、魂を成長させるのです。平たく言えばこの世は仮の世界である。したがって、そこで見るもの、得るものはすべて「空」(からっぽ)なのです。真理の世界(あの世)では肉体はありません。ただ意識のみが存在しています。意識しかありませんからモノを所有するということがありません。モノの所有がありませんから競争もなければ、妬みもありません。もちろん体もありませんから、病気になることも死ぬこともありません。それに対比して、この世では人間は身体を持っているがために、生存欲、所有欲を持つようになります。死を恐れるようにもなります。そこにこそ「苦」が始まる元があるのだと思うのです。体の無い世界(真理の世界、意識だけの世界)をキリスト教では天国、神の国と言い、死ねば必ずそこに召され、仏教では極楽とよび、死ねば必ず、そこに往生できると教えます。死は忌むべきものでも恐れるものでも悲しむものでもありません。「人間が生まれ死んでいくという一つに事象は、人間の生成発展の姿なのです。生も発展なら死も発展です」いみじくも経営の神様といわれた松下幸之助氏の言葉です。

| 17年06月04日

~賢善精進と虚仮~


2017年 4月


 この講を始めてから11年が過ぎました。最初のころは日記のようなものでしが、いつのころからか、良いことを書かなければという気持ちが少しずつ湧いてきました。そして今、「外に賢善精進の姿を現し、内に虚仮を抱く」という言葉を知りました。この言葉の解釈は色々ありますが、私は山本佛骨先生の考え方をとります。つまり、その人は表面的にはいかにも賢そうで善人であり、しかも努力家である、しかしその内面はというと虚仮(うそ、いつわり、愚か、計らいの心)に満ちている、という解釈です。この言葉を知った時、まさに私自身がそうではないのか、と思いました。人を愛さなければならない、信じなければならない、許さなければならない、と言いつつ、自分自身の心の底には、どこか完全に人を愛しきれない、信じきれない、許しきれないものが、わだかまっているのです。人間は本当に凡夫のみです。絶対に完全にはなれません。にもかかわらず、外に賢善精進の姿を現すということは、より人を欺くということになってしまうのではないでしょうか。人はどこまでいっても、自分や自分の家族が一番大切と考え行動するものです。そして少しでも自分が他よりも有利な立場に立ちたい。得をしたい。そのためには人から良く想われたい、とか、たとえそれが不当なことであっても他から何らかの利益を得たい。

このように考え行動しやすいものです。しかし、このような行為に一体どんな意味があるのでしょうか。真理の世界では、これは私のもの、あれは貴方のものという所有の区別はありません。それが証拠に人間は、何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいきます。これは絶対の真実です。この世で得た立場、地位、財産、名誉などは本当の真理の世界では何の価値もないものであると思います。

 そうは言いつつも、煩悩に苛まれ、煩悩から抜け出すことのできない凡夫である虚仮の私が生きていく道とは一体なんであるか。いつも悩んでいます。一つだけ言えることがあります。こんな私でも、家族があり、仕事があり、家もある、おまけに最近少しがたついてきたとはいえ、そこそこ健康な体もある。有難いことです。そうです。私は今も昔も幸せに生きているのです。本当に有難いことです。そんな私がやるべきことは、頑張って幸せになろうではなく、もう十分幸せなんだから頑張ろう、です。私の幸せは私の力で得たものではありません。私が今、生かされているのも私の力ではありません。大いなる偉大な力によるものだと信じています。分からないまでも、自分がこの世に生まれてきた意味を考えれば、少なくとも賢善精進を現すために生まれてきたのではないことは確かです。虚仮の心を持つ為でもありません。賢善精進を現すのではなく、賢善精進にひたすら励むことだと思います。そしてできればその賢善精進の姿を外に見せなければ、なお良いのではと考えます。つまり「外に虚仮の姿を現し、内に賢善精進を抱く」このような生き方が出来れば最高ではないでしょうか。宮沢賢治の詩「雨にも負けず」の最後の一節が浮かんできます。「・・・みんなにでくのぼーと呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず、そういうものに私はなりたい」この様に生きていければと願って止みません

| 17年04月29日

社長のひとり言

~才能~

2017年 3月

「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という有名な言葉があります。私もこの言葉が好きで、つらい時、苦しい時に想いおこして頑張っています。しかし、励ましの言葉ではあっても、現実には誰もがこの通りに実行することは出来ません。愚論かもしれませんが、私に100mを10秒で走れと言われ、厳しい練習をいかに積み重ねようとも、それを実現することは絶対に不可能なのです。この言葉の意味するところは、本当は努力すればできるのに、それをやらないことへの戒めである、と理解するべきです。そしてこの種の言葉は人類の歴史始まって以来、世界中に蔓延し永続しています。それだけ人間は努力をしたがらない、しんどいことはしたくない、できれば楽に生きていきたい。という想いが備わっている悲しい動物なのです。私もその一人です。

 人間はダーウィンの言うように微生物から進化して出来上がったのか、はたまた神様がお作りになられたのかは分かりませんが(私は神様がつくられた。何か偉大な力によってつくられたと信じています)人それぞれ、異なった才能を持っています。実はこれはとても素晴らしいことで、もし人間が皆同じ才能を持っていたら、現在のような文明は存在していないと思います。人は往々にして自分と似た性格、才能を持った人間を敵視することがあります。敵視という言葉は少し過激に過ぎましたが、相性が悪いということはよくあります。それはきっと人間の上昇志向(お山の大将になりたいという感情)のなせる業ではないかと推量します。

 少し自慢になりますが弊社の行動指針に「才能は人のため、決して私物化致しません」というのがあります。これはキョーセラの稲森和夫先生の著書からヒントを得、作ったものです。ところでアドラーは性格は自分がつくる、と言っています。しかし性格は自分がつくっても、生まれつき備わっている才能は、自分ではつくることは出来ないと思います。そしてその才能の中に、あることに対して努力することへの努力がいらないという才能を持っている人がいます。そのあることとは仕事であったり、スポーツであったり、趣味であったり、家族への愛であったり、人類への愛であったりします。また、人を信じたり、許したりすることも努力なしに出来るという才能を持った人々も大勢います。このような才能を持つ人たちが、その才能を、人間が持つ上昇志向を自分自身の上昇ではなく、自分のまわりの人たちの上昇を志向し努力すれば、「為せば成る」のではと考えています。私たちは皆、天から素晴らしい才能を与えられています。その才能を自分自身の利益のためだけに使うのではなく、自分の周りの人たちのために、思いっきり使ってみたいものです。与えられた才能は自分が努力して勝ち得たものではありません。つまり、その才能は自分のものではないのです。だったら、人の為に使いましょう。そのほうがもっと楽しい人生を送れると思います。悔いなく生き、悔いなく死んでいく道の一つではないかと信じて止みません。

| 17年03月28日

社長のひとり言

~働く意義~

2017年 2月

 14年前に亡くなった父は私が社会人になった頃、私によくこう言っていました。「人の倍、働け、倍、働け」と。それに対して若く生意気な私は、「倍、働いたかて給料は倍にはなれへんやん」と言い返していました。人の2倍働いて、2倍の給料がもらえるのだったら、働いてもいいが、それが保証されないのであれば、倍も働くなどばかばかしい、大損である、とさえ思っていました。ところがそんな私が今は経営者となって、だれに言われることもなく、倍も3倍も働いています。当時いかに若いからといって、私の言動や考え方は、思い出してもあまりに未熟で幼稚であったと、ただただ恥じ入るばかりです。

 この講では、そんな私が、目先の損得のみにとらわれた人生は結局のところ、幸せとは程遠い世界に陥ってしまうことになると度々、記してきました。会社の経営理念にも「・・・・働くことの意義を学び人間として成長していきます」と明記しています。これは社員には働く意義を自らが考え、自分自身でその答えを見つけて欲しいと考えたからです。ですから、私がそのことについて説法したことは一度もありません。立場を利用した価値観の押しつけは、相手の反発を招くだけであることを私は経験を通して、よく知っています。それに、あらゆる事象について、その意義を見出すことは至難の業です。たとえ出来たとしても、それは人それぞれです。その人の経験、学び、性格、環境等によって見つける答えは違ってきます。しかし、一般的な答えとして、私は働くことの意義を以下のように捉えています。

1、お金を稼ぐため。そうしないと衣食住に困るから。

2、社会と関わっていくため。社会と絶縁し一人で生きていくことは苦痛である。

3、その仕事を通して社会に貢献するため。それは喜びとなる。

4、仕事は思い通りにならないことの連続です。それを乗り越えるたびに成長する。

私は人生に終わりはあっても、仕事に終わりはないと考えています。なぜなら人が成長するためには仕事は不可欠だからです。そして人間の成長にも終わりはありません。死ぬ瞬間まで成長し続けなければならない。だから死ぬまで仕事をしなければならいと考えるのです。

(ここでいう仕事とは会社で働くことだけを言っているのではありません。家事や地域活動、病気との闘いなどあらゆる活動を意味しています)私は若い時、働くことの意義を上記の1、としか認識していなかったのです。ですからサラリーマンにとっての幸せは、少しでも小さな責任で、少しでも楽をして、少しでもたくさんの給料をもらうことである、と本気で思っていました。しかし、そんな理不尽が続くわけがありません。こんな考えでは、しんどいこと、苦しいことの連続に堪えられなくなるのは当然の帰結でした。結局は逃げるように転職しました。 今の私にとって働く意義の大半は上記の3,4です。大きく成長するためには、上述の反対が必要です。少しでも大きな責任を持ち、決して楽な道を選ばず、頂ける給料に感謝する。仕事は思い通りにならないことの連続です。悩み、苦しみ、努力するからこそ成長できるのです。そして、それを乗り越えたときだけに、真の喜びを感じることが出来るのだと信じています。40数年前、父はそれを私に教えてくれていたのでした。

お父さん、ありがとう。   感謝 合掌

| 17年02月23日