社長のひとりごと|神戸市で健康住宅、外断熱、ソーラーサーキットの冬暖かく、夏涼しい家を建てる工務店

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社長のひとりごと

~宝の山~

2018年5月

“迷子のすすめ”(阿 純章著)という本を読みました。その中にニューヨーク州立大学病院医療センタ―内のロビーの壁に、ある詩が掲げられているそうです。その詩を紹介します。

渡辺和子氏(キリスト教の修道女、ノートルダム清心学園理事長、故人)の訳です。

   『大きなことを成し遂げるために力を与えて欲しいと、神に求めたのに

    謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった

    より偉大なことができるようにと、健康を求めたのに

    より良きことができるようにと、病弱を与えられた

    幸せになろうとして、富を求めたのに

    賢明であるようにと、貧困を授かった

    世の中の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに

    得意にならないようにと、失敗を授かった

    人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに

    あらゆることを喜べるようにと、生命を授かった

    求めたものは一つとして与えられなかったが

    願いはすべて聞き届けられた

    神の意にそわぬものであるにもかかわらず

    心の中で言い表せないものは、すべて叶えられた

    私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ』

この詩の作者は南北戦争の時に負傷して入院した患者であるとか、イエズス会の神父J・ロジャー・ルーシーであるとか言われていますが、実際は分からないそうです。どちらにしてもこの詩が私に一息つかせてくれたことは事実です。最近、私は精進とか至誠とか全身全霊、使命達成、精一杯とかの言葉にとりつかれ、ひたすら努力することの大切さを自分に言いきかせ実践してきました。もちろん今でもそのことの大切さを否定することなど絶対にあり得ません。ただ人間は弱いものです。これらの言葉のもと“自分はこれだけやっているのに・・・・”とどうしても結果や見返りを求める心が拭い切れません。仏教ではこれを貪りとか煩悩といい強く戒めています。以前この講でも記しました。結果を求めてはいけない。結果にはたいした価値はない。それよりも目標に向かって努力している過程そのものに価値があるのだと。

今回、この詩にめぐり合えたことは本当にラッキーでした。どのような人生(結果)であろうと、今、自分のいるところが最高の場所なのだ。あらためて、そのことを教えてくれました。著者は言っています。「どのように生きても、それが人と違っても遅くても早くても、どこにいても、今立っているところが一番いい場所だ。・中略・それに気がつかずに『宝はどこだ、どこだ』と探し求めて、小さな宝を拾い集めて喜んだり、うっかり失くして嘆いたりしているが、ここが宝の山であれば、わざわざ探しに行くこともないし、拾い集める必要もないはずだ」この言葉は決して今の現状に甘んじよということではありません。人生にはいつも課題がついて回ります。その課題を解決するために最善の努力が必要であることは言うまでもありません。ただその努力の結果が思い描いたことと違っていたとしても、それはそれで、宝の山に頂にいるということなのです。人生には幸福も不幸もない。ただ自分の思考がそれをつくりだしているだけでなのです。

| 18年05月21日

~ごみ~

2018年4月

 皆さんも時々目にすることがあるのではないでしょうか。車を運転していて、前方の車の窓から火のついたタバコやごみが投げ捨てられているのを。もっとひどいのになると、信号待ちの時、ドアを開けて灰皿の中身をおもいっきり道路にぶちまけている人も何度か見たことがあります。心の中では、その人に注意しなければと思いつつも、情けないことに実際は怖くて出来ません。せめてスマホで写真を撮って、あとで警察にチクッてやらなくてはと思って、スマホを出すのですが、そういう時に限って操作がうまくいかず、結局その車は行ってしまうのです。明らかな犯罪だと思うのですが、そのような行為をしてよく恥ずかしくないものだと呆れてしまします。

 自宅でこんな話を妻と話していたら妻が「その点、大谷君はえらいわね」私「大谷君って誰?」妻「野球の大谷君よ」日本ハムからアメリカ大リーグのエンゼルスに行った大谷選手のことでした。妻はテレビで見て聴いたそうです。大谷選手が「ゴミを拾うことで、人が捨てた“運”を拾っている」と言って実践しているそうです。早速ネット検索しました。以下はネットからです。「4月11日のレンジャース戦、8回表、大谷は四球を選んだ。一塁に大谷を置いて、レンジャースの投手はクリス・マーティン。マーティンは鋭い牽制球を投げた。この時、大谷は一塁ベースに長い足をかけながら、手を伸ばしてファウルラインの内側に落ちていたゴミを拾ってファウルゾーンに投げました」素晴らしい話ですね。大谷選手は今年メジャーデビューです。試合でいい結果を出さなければ、アメリカのことですから厳しいバッシングを受けること間違いなしの状況でプレーに必死のはずです。そんな状況でも実際の試合中に、それも塁に出ている時、目にとまったゴミを拾うという行為、頭が下がりますね。かりに運を拾うという打算があったとしても、なかなかできることではありません。前述の車からゴミを捨てる人たちに知ってもらいたいですね。ごみを捨てれば運にも見放されるということを。

 4月4日、妻と二人、明石公園に花見に行きました。美しく咲き乱れた桜の花は池の水面に本当によく映えます。毎年のことですが大勢の人々がお花見を楽しんでいます。私たちはお決まりの剛ノ池の東のほとりでお弁当を広げます。この日は車ではなくバスに乗っていきます。もちろん飲むためです。私たちのまわりも大勢の人たちがシートを敷いて楽しく過ごしていました。今その時の記憶をたどっていますが、ただのひとかけらのごみも落ちてはいませんでした。明石公園に花見に来る人々は本当に善男善女ばかりです。青い空と薄ピンクの桜の花びら、その背景にある常緑樹の濃い緑、池の水面に流れるそよ風、この風光の中でお酒を飲める幸せに私は酔っていました。ごみを捨てない花見の人々に幸あれと祈ります。

 来月は私たち夫婦の結婚35周年です。ここ数年、記念日は知っていても何もしていません。今、断捨離に励んでいる妻には結婚以来、今まで本当に苦労を掛け続けました。そして今もかけています。その妻に報いるためにも5月29日は何か非日常を感じる一日にしたいと願っています。“ひとつ拾えば、ひとつだけきれいになる”イエローハット創業者の鍵山先生の言葉です。ひとつだけでも良いことをして、ひとつだけでもきれいになります。

| コメント (0) | 18年04月24日

アドラーⅡ

2018年3月

 今月のこの講は先月に引き続きアドラー心理学(引用は小倉広著、人生の革命が起きる100の言葉より)のことを記します。あらゆる悩みは対人関係の課題である、とアドラーは言いました。たった一人で住んでいる世捨て人のような人でさえも、実は他人の目を気にしているのです。それがよくわかる、以下のようなエピソードがあります。
 ある村に世俗的な欲望を捨てた仙人のような人がいました。彼は村に住むことを拒否し、山の中に掘っ建て小屋を造って、たった一人で自給自足の生活を始めました。村人たちと交流することに意味を感じなかったのです。ある日、その村が大火事に見舞われました。村は荒れ果て、人々はその土地を捨てて、他の土地に移住することに決めました。そして、村全体で大移動したのです。すると、驚いたことに、仙人のような世捨て人までもが移住して、新しい村を見渡せる新たな山に引っ越したのです。仙人は、人間関係を捨てたのではありませんでした。彼は「世俗の欲望を捨てた仙人のように“清らか”で“優れた”人間である」と村人から思われたかった。そのため世捨て人になったのです。ですから“観客”のいない場所で生きることに耐えられなかったのです。あらゆる人の悩みは、すべて対人関係の問題に帰結します。自分がどのような人間でありたいか、と考える際には、必ず周囲の目を気にしているのです。
 次に、人は人生の敗北を避けるために、あらゆるものを利用する。とアドラーは言いました。時には自分でも気づかないうちに病気を作り出すことがある、というのです。病気になれば会社や学校に行かなくても済む。人前で無様な姿をさらさなくても済む。そう思うと、頭痛、腹痛、発熱、吐き気、パニックなどの症状を無意識のうちに作り出すことがある。病気になるのは辛いことです。しかし、衆目の下で自らの敗北をさらされることに比べれば、なんということはありません。負け戦に挑むくらいならば病気の方がましだからです。
 次に、「なぜ隣人を愛さなければならいのか?」「私の隣人は私を愛してくれるのか?」と尋ねる人は、協力する訓練が出来ておらず、自分にしか関心がないことを露呈している。
人生におけるあらゆる失敗の原因は、自分のこと(自分の利益、損得)しか考えていないことにある」と述べています。「人々が協力し合うことを最終目標としているあらゆる活動や努力に私は賛同する」というアドラーの教えはキリスト教、仏教の教えと近いのもがあります。「誰かが始めなくてはならない。他の人が協力的でなくても関係ない。たとえ見返りが一切なくても、誰も認めてくれなくても、あなたが始めるべきだ」と教えるのです。そしてまた鎌倉時代の道元禅師の書かれた「他はこれ吾にあらず。いずれの時をか待たん」も同じです。意味は、他人がやったことは自分がやったことではない。そして、それは今やらなければならない。面倒なこと、しんどいことを他人に押し付けたり、先送りにしたりすることを戒めた言葉です。もし、あなたが人生に敗北したくないのなら、悩みはすべて対人関係の中にあることを認め、自分の損得を超え、他人のために、自分はこの世に生まれてきたことを実践するしかないと思います。さあ皆さん、一緒に挑戦していましょう。  挑戦誓願

| 18年03月21日

~誠~

2018年2月

 「・・・・しんみんよ疲れてはならん 疲れるのはまことがないからだ まことでしたことに疲れるなんて おこることはない筈だ」これは仏教詩人の坂村真民(さかむらしんみん)先生の詩の一節です。私もそうですが、私たちはまるで口癖のように「あ~疲れた」を連発しています。真民先生の言われるように、疲れるのは誠がないからかもしれませんが、未熟者の私は実際確かに疲れます。でもよくよく振り返って考えてみれば、楽しいことをやっている時に疲れたという記憶はあまりありません。それが証拠に、大好きなお酒を飲んでいる時に疲れたと感じたことは、多分一度もないと思います。皆さんも振り返ってみてください。

仕事でも、遊びでも、家事でも、勉強でも、疲れたと感じるのはだいたい嫌々やっている時ではないでしょうか。嫌々やっていることに誠はないですよね。

 心理学者のアドラーは著書でこう言っています。“やる気がなくなったのではない。「やる気をなくす」という決断を自分でしただけだ”このアドラー流の論法でいけば“疲れたのではない。「疲れたと感じよう」という決断を自分がしただけだ”となります。アドラーはすべて人間の行為は目的があってするものである。決して原因があって結果があるのではないという目的論をとります。つまり疲れたと感じようと決断したほうが、自分にとって都合がよいからです。なぜなら疲れたことを口実に休もう、楽をしようという目的があるかです。

 雑誌で読んだ話にこういうのがありました。あるお坊さんが、お寺の修行があまりに厳しいので逃げ出したくなった。死んでもおかしくないくらいに厳しい修行でした。でも逃げ出すわけにはいかない。そこで考えたのが、「そうだ、修行で倒れて、そして救急車で病院に運んでもらおう。そうすれば厳しい修行から逃れられる。いくら修行が厳しくても意識を失い倒れれば、だれか救急車を呼んでくれるだろう」という作戦でした。そう決心して救急車で運んでもらうために倒れるまで修業しようと必死に頑張りました。ところがいくら修行しても、倒れようといくら努力しても一向に倒れないのです。それどころか、あれほどきついと思っていた修行が、段々ときつくなくなってきて、むしろ楽しくなっていくのです。結局、そのお坊さんは修行を努め上げ立派な高僧になっていかれたのです。

 私たちはよく口にします。「もういっぱい一杯です」「これ以上は無理です」でも本当でしょうか。自分がただ楽をしたい、しんどいことはしたくない、ほかの誰かに迷惑がかかるだろうが自分がよければそれでいい、という目的があるから、そういう言葉を口にするのではないでしょうか。それって“まこと”でしょうか。まことではありませんね。このような道から外れたことを続けていけば畢竟、不幸の真っただ中を突き進むという道から決して逃れることは出来なくなるでしょう。幕末の偉人、吉田松陰の有名な言葉に「至誠にして動かざる者は、未だ之れ有らざるなり」というのがあります。精一杯の誠の心で努力し接して、心を動かされなかった人は今まで誰もいない、という意味です。私たちは本当にまことを、至誠を、貫いた生き方をしているでしょうか。至誠を貫いた生き方をするか、はたまた、疲れた、もういっぱいです、もうこれ以上無理です、という言葉を吐き続ける生き方を選ぶかは、自分で決めることが出来ます。「あなたをつくったのはあなた。これからの人生を決めるのもあなた。人生が困難なのではない。あなたが人生を困難にしているのだ。人生は極めてシンプルである」

アルフレッド アドラーの言葉です。             至誠合掌

| 18年03月02日

~少聞~

2018年1月

 法句経152番はこのように書かれています。『聞くこと少なきひとは、かの犂(すき)をひく牡牛のごとく、ただ老ゆるなり。その肉は肥ゆれど、その智慧は増すことなからん』この言葉は友松圓諦先生のCDで知りました。以下に友松先生の解説を記します。
 “お釈迦様には阿難という弟子がいました。いつもお釈迦様の側にいて、お釈迦様のお話をよく聞いていたので「多聞第一」と呼ばれました。多聞とはその字の通り、たくさん聞いて智慧があるという意味です。「聞くこと少なきひと」はこの反対ですので“少聞”と呼び、聞くことが嫌いな人のことです。特に年寄りは得てして聞くこと少なき人が多い。そして周りの人に聞かせよう聞かせようとするのです。ところが勉強はしない、研究もしない、何を聞いてもあまり驚かない、好奇心も知識欲も減って聞くことが少なく、そのくせ何でも知っているつもりでいて、本当は何も知らない。知ったかぶりをしているのが老人の癖です。田畑の土を耕す犂を引く牡牛は、年をとると太る一方です。牡牛は食べるばかりで太っていきます。しかし牛ですから勉強しないので智慧が増すことはありません。人間も同じです。若い人からものを聞いたり、世間からものを学ばなければ、智慧が増えず、ただ年をとってしまうだけの存在です。“ 
友松先生のお話を聞いて、半分は私のことかと思いました。私も妻からよく言われます。
『お父さん、少しは人の話を聞いたらどう。人がしゃべっているのにまともに聴いてないじゃないの。たまに聴いてるかと思えば、私の話で思いついた自分の話をして・・・・・』
私の知る限り人間は基本的におしゃべりが好きです。特に自分が話すのが好きです。でもそういう人に限って、人の話は聞きません。人がしゃべり出すと、プイッと横を向くか、その人の話に首を突っ込み自分がまた話し出す。老人でなくても人は、人に聞かせよう聞かせようとする悪い癖があります。ではなぜ人は少聞で多弁になるのでしょうか。いろんな理由が考えられます。ひとつは自分には関心があるが、自分以外の人には関心がない。もうひとつは、聞くことによって自分が人生で積み重ねてきたことを否定されるのではという恐れ、あるいは本当は自分の心の奥底で気付いている認めたくない間違いを、認めさせられるのではないか、という恐怖。自分の積み重ねてきたものを否定されたり、認めたくない自分の間違いを認めてしまえば畢竟、自分を変えざるを得なくなる。自分を変えるということは大変なことです。変化していくために新しいことを学び覚え実践していくというのは大変な苦労です。それが嫌だから聞かないのです。そして聞きたくないからしゃべるのです。人間は基本的にしんどいことは避けたい、楽に生きていきたい、そう考える動物です。
 しかし、諸行は無常です。おなじことは絶対に続きません。これは宇宙の法則です。だとしたら自分も変化していかなければなりません。「変化に対応するものだけが生き残る」という有名な言葉もあります。変化していくことは苦であると前述しましたが、苦であるからこそ成長し、そこに本当の喜びがあるのではないかと信じています。「苦」なくしては成長もなければ喜びもありません。私達はいつも多聞を意識し、少聞を慎まなければなりません。
そんなことで私は会社の行動指針に「人の話は素直に聞きます」と作りました。

| 18年01月27日

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