社長のひとり言 

記録 2012年2月 6日

~記録~

2011.12月

 

この講の10月号で72キロのダイエットを宣言しました。結果、なんとか達成できました。その方法はずばり、記録することでした。表を作ってその日に食べたもの飲んだものをすべて記録するのです。そこには毎日の就寝前の体重も記入します。そして今度はその体重を別のノートで折れ線グラフにするのです。書いてみて初めて、今まで感覚的にしかとらえていなかった食べた量、飲んだ量を、客観的な事実として捉えることが出来ました。はっきり言って、今までは食べ過ぎ、飲み過ぎでした。記録してみて初めて、強く意識できました。ダイエットは今までにもキャベツをひたすら食べるなどして挑戦しましたが、しんどい割には効果もあまりなく、結局は続きませんでした。その点この記録方法は良いことばかりで、短所がありません。お金もかかりません。作業はただ記録するというそれだけです。そして記録していく中で、自らの意志で飲食量を抑えることになるのです。この自らの意志というのが大変重要であるということは以前から知っていて、それを会社でもよく言葉にしていました。それを、今回のダイエットで、その力をまざまざと思い知らされることになりました。自らの意志とは人に言われたから、強制されているからやるのではなく、自分自身で「よし!やろう、やりたい、やるぞ!」との想いのことです。そして、そう想えば人はやるものなのです。その動機付けが記録することなのではと、この歳になってやっとわかってきました。

私は自分の性格上の欠点をよく知っています。とても観念的、情緒的、感覚的でおよそ論理的思考とは大きくかけ離れた性格です。私の文章ひとつをとっても、それがわかると思います。したがって事実を分析して、対策を練るという思考がなかなか取れないのです。ですから記録するという行為の経験がほとんどありません。そのせいか会社経営での重要な作業である仕組みづくりというものが思い切り下手です。(それでよく17年間も経営者が務まってきたものだと自分でも思います。お客様と社員に恵まれたことと、運がよかったの一言に尽きると思います)今までも事実は事実として捉えてきましたが、いつも頭の中でイメージし、そしてその対策を頭の中で考え、結論を出して対応してきました。これからは事実を書面にして記録することとします。そしてその対策も、紙に書きます。頭の中でイメージしていたものを紙に書くと、その事実を主観的、情緒的でなく、客観的に捉えることができることを、今回の記録式ダイエットで学びました。記録して決定するのと、頭の中で考え決定するのとでは、その意志の強さに大きな差があることも知りました。

"事を成すには、まず強く想うこと"そして、強く想うためには記録すること。

 

追伸:年末に妻と5年ぶりに白浜温泉に行ってきました。愛犬アリスは近所に住む義姉が預かってくれましたので安心して行けました。この1年も失敗はたくさんしましたが、我ながらまあまあ、よくやったかなと、少しだけ心を緩ませました。お天気に恵まれ、白良浜の白い砂と、南紀のどこか楽天的で開放的な青い空を心から満喫してきました。そして、旅館の豪勢な料理に、この日だけは思いっきり飲んで食べました。-------人間は弱い。



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成長 2011年12月24日

~成長~

2011年11月

 

 弊社の経営理念には「----------働くことの意義を学び、人間として成長していきます」との一節があります。小泉元総理は「改革なくして成長なし」を連発していました。私の社員への指示事項には最近「挑戦なくして成長なし、改善なくして成長なし、成長なくして存続なし」を末尾に書き続けています。どうやら人は成長という言葉が好きで、今の世の中に満ち満ちているように思います。

ところで、皆さんは成長って一体どういうことなのか、なぜ成長しなければならないのか、というようなことを考えられたことはあるでしょうか。私も今までそんなこと考えたこともありませんでした。ただ単に成長することは良いことだから、成長しよう、成長しなければならないとだけ考えていました。会社の場合、成長というとなんとなく、売上や利益や会社規模の拡大を連想しますが、こと人間に関して、成長するって一体どういうことなんだろう、どうなれば成長したことになるのだろうと、近頃なぜかずっと気になっていました。結構、自分なりに色々と考えましたが、考えても考えても明解な答えが見つかりません。そこで本を買いました。タイトルはずばり「成長するものだけが生き残る」(上原春男著)という本です。なかなか読みごたえのある本で皆さんにもお勧めしたいと思います。その本の序章に「なぜ成長しなければならないか」という一章がありその中で答えを探しましたが、答えらしきものとしては、「人間は本来、成長するようにできている」とこの一言くらいしかありません。たしかにその通りと私も思います。しかし、なにか物足りません。では、なぜ人間は成長するようにできているのか?実はその答えが欲しかったのです。本を読めば、成長しようと努力することが幸福につながる、また成長することをやめたら幸福にはなれないとあり、このことはよく理解できました。でも、やはり何か物足りません。そこでもう一度最初から読み直しました。

本の中ほどに、こんなくだりがあるのをご紹介しておきます。---------じつは私は長年、学生相手にひそかに、その人の「やさしさ」を見る、ある実験を行ってきました。研究や実験で忙しそうにしている学生に、わざと「おなかがすいたから、パンを買ってきてくれないか」とお使いを頼みます。それに対して学生がどんな反応を示すか。そして、どの反応を示した学生が、将来どういう人間に成長していくか。それを長い時間かけて、かなりのサンプル数をとってきたのです。意地悪といえば意地悪な実験であり、忙しいときの依頼で頼むほうも迷惑は承知のことです。しかし、だからこそ、その反応でその人の能力や器量がわかりやすくつかめるのではないかと踏んでのひそかな試みで、学生たちはまったく気づいていないはずです。その結果はどうであったか。まず、学生が示す反応は、次のようなパターンに分かれます。

    「はい。すぐ行ってきます」と二つ返事で速やかに席を立つ

    「わかりました」とやりかけの仕事をすぐに一段落させてから行く

    「これをしてから行きますから、少し待ってください」と当面の仕事を優先させる

    いかにも気乗りしない様子で、黙ってしぶしぶ席を立つ

    「なんで、私が先生のパンを買いに行かなくてはいけないのですか」と食ってかかり、結局行かない

この実験を始めたころの私の教え子たちは、今ではもう定年を迎える年に近づいていますが、それぞれの学生のその後の行く末を観察してみると、面白いことがわかります。①や②のような「やさしい」反応を見せた学生はほとんど、成績も伸び、優良企業へ就職し、そこでいい仕事をして出世し、満ち足りた人生を送っています。逆に、④や⑤のような反応をした人は、仕事を転々とし、あまり幸せそうに人生を送ってはいません。たかだか「パンを買ってきてくれ」という実験ですが、その返事によって、人に対するその人の「やさしさ」がわかります。そしてその「やさしさ」こそ、その人の度量や力量の潜在力、つまり将来の成長力を測るひとつの指標となるのです。-----------------

とても分かりやすい一節ですね。しかし、反論したいこともあります。まず昔の私は確実に④か⑤であったと思います。まったく未熟でした。そのせいか、セレクトホームを始めるまでに会社を5回も変わっています。でも今、私はとても幸せです。私と同じような人はたくさんいらっしゃると思います。ですからこの著述は一般論として受け取って下さい。私が思うに著者は、もともと人間は成長するようにできている、だから成長することによってのみ幸福になれるが、人に対するやさしさのない人間は成長できない、と少し乱暴ですが超簡単にまとめてみました。たしかのその通りだと思います。

 しかし、くどいようですが私の疑問は、人はなぜ成長するようになっているのか、ということに尽きるのです。とても哲学的で浅学の私には荷が重すぎますが、一つだけ思い当たることがあります。飯田先生の教えです。飯田先生から学んだことを自分なりにまとめてみました。「人間の本当の姿は魂という意識体である。だから何度でも生まれ変わることができる。ではなぜ生まれ変わるのか。その答えは生まれてこなければ経験できない貴重な学びの機会があるからこそ生まれてくるのである。つまり死や病気や人間関係などの思い通りにならないこと通じて学ぶことこそが、人間として生きる目的であり意義であり意味でもある。ですから人間は学ぶことを目的として自分の意志で生まれてくるのです。もっと具体的に言えば、何かを学ぶために、自分の意志で親を選んでまで生まれてくるのです」

このもし仮説が真実だとすれば、人はなぜ成長するようになっているのか、その理由がわかってきます。なぜなら、自分の意志で、何かを学ぶために、いついかなる時でも幸福でいられる天国から、親まで選んでこの厳しい現実世界に生まれてくるわけですから、成長しようとするのは当たり前のこととなってきます。要するに人間は、成長することを目的に自分の意志で生まれてくるのです。そして成長するとは正に、学ぶこと、そのものであるといえるでしょう。それでは、なにを学ぶために生まれてくるのでしょうか。それは「信じること、許すこと、愛すること」につきるのではないかと私は確信しています。

  今の世の中、この厳しい競争社会でいったい誰が自分を助けてくれるのか、誰も助けてはくれない、自分ひとりの力で生きていくしかない、いやそれどころか少しでも油断すれば、足元をすくわれ奈落の底へ突き落される、だからだれも信用などできない、とこんな風に考え行動していると思える人たちが、悲しいかな、大勢いるように思います。でも、そういう生き方って本当に幸福を感じることができるのでしょうか。私は出来ないと思います。競争に勝って何を得るのでしょうか。相手を打ち負かし自分を押し通して、どんな幸せが待っているのでしょうか。そんなことで本当に心の底から喜びを感じることができるのでしょうか。今こそ、「信じること」「許すこと」「愛すること」を真剣に学び、少しでも実践するときが来ているのではないでしょうか。私は今そんな風に考えています。本の著者、上原先生が行った実験の①や②の人ように、喜んでパンを買いに行ける、損得を考えず、ただ人のためになるなら、人が喜んでくれるならと、素直に行動できる、そんな人になりたいと願ってやみません。



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ダイエット 2011年12月24日

~ダイエット~

2011年10月

 

 愛犬アリスが2回目の脳梗塞を起こしたことは、この講で書きました。8月のことでした。今は、よろよろ歩きから、だいぶ回復しましたが、やはり以前と同じというわけにはいきません。特に階段を下りることは、まったく出来なくなりました。それと15歳という年のせいもあるのでしょうか、以前なら1時間以上でも平気で散歩していたのが、15分もすれば、家に帰ろうとします。それは致し方のないことですが、問題は歩く距離の減少とともに、私の体重が増加し始めたことです。もちろん、散歩の距離の減少だけが体重増加の原因ではないことは承知しています。しかし、アリスの脳梗塞発症と時を同じくして、体重がみるみる増加してきたところをみると、やはり私にとって運動が適正体重維持のための最も大きな要素であったことが、この度よくわかりました。

 ですから、もし私が強い意志でもって適正体重に戻そうと思うのであれば、運動量を増やせばいいという、ただそれだけのことです。しかし、これがなかなか出来ないのが、私の弱点であり、私の人間としての徳のなさ、器量の小ささに繋がっているのだと思います。

思っていても出来ない、やろうと決めてもやらない、悪いことだとわかっていても止められない、知っているけどただ知っているというだけ、学んでも学んだだけ、とこういうのがとても多いなと、最近つくづく思います。昔、誰かから言われたことがあります。「お前は有馬温泉やな」私はその意味が分からなかったので尋ねますと「有馬温泉は湯だけや。そやから、ゆうだけや」どうやら有馬温泉は料金は高い、料理はまずい、サービスは悪い、だからまともなのは温泉のお湯だけである、湯だけ→ゆうだけ→言うだけ、言うだけで実行が伴わない、という意味なのでした。(有馬温泉の名誉のために言っておきますが、これはあくまでも俗世間のダジャレであり比喩であって、決して有馬温泉がそうだというものではありません)

 でも、私は十数年前にタバコを止めることが出来ました。決して言うだけではありません。この時、私は誰かに禁煙を宣言したとか、そんなことはしていません。自分自身で強く決心したのです。なぜ強く決心したかというと、血を吐いて、命が惜しくなったからです。やはり私のような人間は何か衝撃的なことがないと、なかなか強い意志を持つことができないようですね。ここで問題なのは十数年前の私が、自分の命が無くなるかもしれないという自身の重大な損得にかかわるということでしか、強い意志を持てなかったということです。でも動機の純、不純はともかく強い意志を持てば、それは成し遂げることができる、ということだけはどうやら確かなことではないかと思うようになりました。

 いま私は11月30日の就寝前の体重を72キロに落とすという目標を立てて実行中です。家でも会社でも公表しています。この講でもお約束します。弱い自分を拘束し、逃げ場をなくすためです。ちなみに、健康診断時に指摘されている理想体重は68キロです。まだ少し弱さがあるようですね。

 お釈迦様の言葉「人はその思う通りの人になる」

 松下幸之助先生「まず、そうしたいと強く思うことです」



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上高地 2011年10月 8日

~上高地~

2011年9月

 

初めて上高地に行きました。パック旅行は去年10月の萩、津和野以来です。私がパック旅行を決めるときの条件は、①飛行機はダメ②バスに乗る時間が極力少ない③温泉地である、この3つが最低条件です。要するに目的地までは極力、列車で行くということです。これは車の運転が好きではないということと、飛行機やバスのような狭いところに長時間、閉じ込められるのが、最近とても苦痛なのです。きっと軽い閉所恐怖症かパニック障害ではないかと思います。その点、大きな旅客船や列車は自由に動くことができ快適です。特に、美しい車窓と缶ビールの取り合わせは最高に幸せです。今回も名古屋から塩尻までの中央本線、高山から名古屋までの高山本線の車窓を楽しみにしていました。それともう一つ今回の旅行の決め手は、上高地での3時間の自由散策時間でした。

 妻はもともと歩くことが大好きで、ハイキングは何よりの楽しみでした。結婚する前にも、デートで何回か六甲山をハイキングしたことがあります。また結婚して子供が出来てからも、西宮の甲山や、仁川、須磨の鉢伏山などによく行きました。でもその頃の私の本心は違うところにありました。ゴルフに行きたかったのです。ゴルフは今でもやりますが、サラリーマンであった若いころのゴルフに対する情熱は、今とは比べようもありません。妻がハイキングに行きたがっているのを分かっていながら、自分の欲を優先させてゴルフに行ったことが数多くありました。

妻は40歳を過ぎたころ、難病といわれているリウマチを患っていることが判りました。

幸いなことに普通の生活をすることには今でも何の問題もありませんが、上り下りの激しい長時間歩行は膝への負担が大きすぎて、大好きなハイキングは断念せざるを得なくなりました。それから10数年経ちましたが、妻に対する私の贖罪の気持ちは年々強くなっています。もっともっと妻や娘たちとハイキングに行くべきであった、ゴルフは70歳になっても、80歳になっても健康でさえあれば出来るのに--------------自分はなんて身勝手な男であったかと。

 上高地の大正池から河童橋まで、梓川沿いに2時間余りかけて妻と散策しました。当日は添乗員の方も言っておられました。「こんなに晴れて山がきれいに見えることは珍しいのですよ」

山々の美しさ、梓川の清らかさ、木々のぬくもり、すがすがしくて爽やかな空気、妻も私も大満足です。妻は「川が本当にきれいね。私、川に入りたいわ」と。でも9月というのに梓川の水はどこまでも冷たくて、手を濡らすことはできても、足を浸すことは無理でした。でも私は山や川を見て、まるで子供のように喜ぶ妻の顔を見ることができ本当に幸せでした。

 翌日、新穂高温泉駅から標高2156mの山頂までの新穂高ロープウェイ(2つのロープウェイを乗り継いで山頂に)に乗ったのですが、朝一番から多くのツアー客で超満員です。車内で立っていると閉所恐怖かパニックか恐ろしく不快、不安でした。それでも一つ目のロープウェイは辛抱できました。これはたまらんと二つ目は素早く動いて、わずかな座席のなかから二人分確保しました。でも妻は、後から乗ってきた老婦人に席を譲ってあげたのです。当然、私も譲ります。満員で苦しい姿勢です。するとまたも激しい不安感が(パニックに)、妻の手を握り、じっと耐えること2分ばかり、すると、うそのようにすうっーと楽になりました。妻の愛か、神のご加護か、きっと両方だと思います。私は救われました。すべてのことには理由がある。偶然など何一つない。飯田先生の言葉です。この度の旅行でも、たくさんのごちそうと美酒に酔いしれて大満足でしたが、それとは別に、ロープウェイでの出来事に、私は何か生きていることの意味みたいなものを、少しだけ学んだような、そんな気がしています。



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私心 2011年9月24日

~私心~

2011年8月

 

 この講で私は時々偉そうな悟りきったようなことを書いていますが、そんなに偉そうなことを言えるほど立派な人間ではありません。迷うことも、悩むこともあります。

聖書の中の有名な言葉に「汝らの中、罪なき者、まず石をもて」(ヨハネ福音書)があります。これはイエスがユダヤ教の律法学者に「この女は姦淫の罪を犯した。律法では石打の刑で殺せとなっているが、あなたはどうお考えか」と姦淫の罪を犯した女を連れてきて尋ねた。その時に発せられたイエスの言葉です。「あなたたちの中で、今まで一度も罪を犯したことのないものだけが、この女に石を投げなさい」という意味です。この言葉を聞いた律法学者たちは一人一人と、その場を去っていった。そしてイエスはその女にこう言われたという。「私はあなたを罰しない。もう行きなさい。今後はもう罪を犯さないように--------

私はクリスチャンではありませんが、この話が昔から好きでした。

平成7年に独立開業しましたが、会社経営について学んだことは一切ありませんでした。そこで中小企業家同友会という勉強会組織に平成8年に入会し、以来ずっと学び続けています。本当に多くのことを学ばせて頂きました。その中に労使関係をまとめた本があり、こう書かれています。「経営者である以上、いかに環境が厳しくとも、時代の変化に対応して、経営を維持し発展させる必要があります」この経営を維持・発展させるという一言に、社長の責任、責務は集約されていると思います。今、私はこのことに何の疑問も持っていません。また動機はともあれ、一度、会社を興し、そこに人が集まり、お客様、取引先との関係が生じれば、これは私企業といえども、公(おおやけ)の行為だと知るようになりました。公ですから当然、私欲、私心をもって、ことの判断をし、行動することは許されません。

私は会社を始めたころは、先に述べたイエスの言葉にできるだけ従うことが、正しいのではないかと考え行動してきました。なぜなら、私とて罪無きものではないからです。およそ人間で罪(罪を定義するのはとても難しいが、「良心的でなく、愛もなく、前向きでない行動をとること」とする)の無いものは誰一人としていないと思います。ですから、人は決して人を責めてはいけない、と信じていました。ところが会社には色々な人が社員として、取引先として存在します。人は人を責めてはいけないと考えるあまり、人が犯した怠慢からくるミスや、仕事に取り組む誠意のない姿勢にも、責めてはいけない、その人が自ら気付くのを待とう、見守ろうと、このような対応が多かったように思います。しかし、結果、その人たちが過ちに気付き、自らの行動をよい方向に変えていったという例は皆無でした。このままではいつか会社は立ち行かなくなる、と思い、人は人を責めてはいけないという考え方より、会社を維持、発展させなければならないとの考え方を優先するようになりました。人を責めてはいけないという考えは、会社経営という公の行為の前では、悲しいかな私心と言わざるを得ない、そう思うようになったのです。それから、会社は少しずつですが良い方向に向かい始めました。

また、人を責めることと、人を教え導くことの違いについても少しずつわかってきました。

間違っているかもしれませんが、人が人を責めるというのは、どこか感情的で私欲な部分があるように思います。それに対して、人に教え導くということは、どこまでも冷静で私心や打算を捨て、本心から、その人のためを考えて言動しなければならないことだと思います。しかし、私にこれができているかといえば、まだ出来ていません。たぶん、うまくいって半分くらい出来ればよいかと思います。いずれにしても、大切なことは、人に対して教えたり導いたりするのであれば、まず自分自身が私心を捨て、公に近い人間になる必要がある、このことではないかと思います。公に近い人間になるなど、これは一見、難しそうにとらえがちですが、そんなに難しいことではありません。ひたすら「私心を捨てろ、私心を捨てろ---------」と念仏のように唱え続ければ、誰でもできます。そして、本当に私心を捨て、世のため人のためにという想いがわき起こるとき、人はだれでも幸福を得られるのではないかと、そう思うようになりました。

 

 

追伸: 司馬遼太郎の小説"竜馬がゆく"のなかで竜馬は「こちらに正義があり、相手に非があるからと言って、相手を言い負かすようなことをしてはいけない。そんなことをしても、言い負かされた相手は、こちらのことをただ恨み続けるだけで、自分の志を成し遂げるためのわざわいにしかならない。」とこんなようなことを言っていたと記憶しています。竜馬にとっての志とはまさに公(おおやけ)であって、相手を論破するなどという行為は、単なる自己満足に過ぎない、といえるかも。小説の正確な表現は覚えていませんが、昔から私はこの一節が大好きです。今は、少しこの意味が分かってきたところですが、本を読んだ頃はまだ若く、ただ単に人は人を責めてはいけないと、単純に思い込んでいただけのことかもしれませんね。

 

 

 

追伸2:愛犬アリスが2度目の脳梗塞を起こしました。まったく歩けない状態で、水も食べ物も受け付けません。このたびは、もうダメかなと考え、ネットで動物の葬儀場まで調べていました。ところが、この数日、少しずつ復活してきました。水も飲み、食べるようになりました。それとともに、よろよろですが、少し歩けるようにまで回復しました。妻も私も娘も大喜びです。動物病院のM先生のお蔭と感謝しています。有難うございました。



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