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社長のひとりごと

社長のひとり言

~働く意義~

2017年 2月

 14年前に亡くなった父は私が社会人になった頃、私によくこう言っていました。「人の倍、働け、倍、働け」と。それに対して若く生意気な私は、「倍、働いたかて給料は倍にはなれへんやん」と言い返していました。人の2倍働いて、2倍の給料がもらえるのだったら、働いてもいいが、それが保証されないのであれば、倍も働くなどばかばかしい、大損である、とさえ思っていました。ところがそんな私が今は経営者となって、だれに言われることもなく、倍も3倍も働いています。当時いかに若いからといって、私の言動や考え方は、思い出してもあまりに未熟で幼稚であったと、ただただ恥じ入るばかりです。

 この講では、そんな私が、目先の損得のみにとらわれた人生は結局のところ、幸せとは程遠い世界に陥ってしまうことになると度々、記してきました。会社の経営理念にも「・・・・働くことの意義を学び人間として成長していきます」と明記しています。これは社員には働く意義を自らが考え、自分自身でその答えを見つけて欲しいと考えたからです。ですから、私がそのことについて説法したことは一度もありません。立場を利用した価値観の押しつけは、相手の反発を招くだけであることを私は経験を通して、よく知っています。それに、あらゆる事象について、その意義を見出すことは至難の業です。たとえ出来たとしても、それは人それぞれです。その人の経験、学び、性格、環境等によって見つける答えは違ってきます。しかし、一般的な答えとして、私は働くことの意義を以下のように捉えています。

1、お金を稼ぐため。そうしないと衣食住に困るから。

2、社会と関わっていくため。社会と絶縁し一人で生きていくことは苦痛である。

3、その仕事を通して社会に貢献するため。それは喜びとなる。

4、仕事は思い通りにならないことの連続です。それを乗り越えるたびに成長する。

私は人生に終わりはあっても、仕事に終わりはないと考えています。なぜなら人が成長するためには仕事は不可欠だからです。そして人間の成長にも終わりはありません。死ぬ瞬間まで成長し続けなければならない。だから死ぬまで仕事をしなければならいと考えるのです。

(ここでいう仕事とは会社で働くことだけを言っているのではありません。家事や地域活動、病気との闘いなどあらゆる活動を意味しています)私は若い時、働くことの意義を上記の1、としか認識していなかったのです。ですからサラリーマンにとっての幸せは、少しでも小さな責任で、少しでも楽をして、少しでもたくさんの給料をもらうことである、と本気で思っていました。しかし、そんな理不尽が続くわけがありません。こんな考えでは、しんどいこと、苦しいことの連続に堪えられなくなるのは当然の帰結でした。結局は逃げるように転職しました。 今の私にとって働く意義の大半は上記の3,4です。大きく成長するためには、上述の反対が必要です。少しでも大きな責任を持ち、決して楽な道を選ばず、頂ける給料に感謝する。仕事は思い通りにならないことの連続です。悩み、苦しみ、努力するからこそ成長できるのです。そして、それを乗り越えたときだけに、真の喜びを感じることが出来るのだと信じています。40数年前、父はそれを私に教えてくれていたのでした。

お父さん、ありがとう。   感謝 合掌

| 17年02月23日

社長のひとり言

~性格~

2017年1月

 今年も1月に恒例の大学時代の友人四人が大阪で集まりました。昨年のこの講でも記しましたように,もう47年の付き合いになります。これだけの長い年月、毎年の交流が続いているのはひとえにO君のお蔭ですが、最近どうもそれだけではないのでは、と考えるようになりました。もちろん学生時代から仲が良かったことは言うまでもありませんが、それにもまして、まず4人が4人とも交際を続けようという強い意志があったこと。その結果それぞれが我を通さず譲り合ってきたことも大きな理由の一つだと思うようになりました。人間は往々にして親しい間柄であればあるほど、わがままを言う傾向があります。私もその一人です。とくに家族に対してはそうであったと思います。若いころは会社でもそうでした。家族はわがままを許してくれても、会社はそういう訳には参りません。結局その組織にいられなくなります。良い人間関係を継続するためには自我を抑え、相手を否定せず、できるだけ譲る、この三つが必須であうように今は思っています。我々四人は47年間、まさにこれを実行してきたと自負できます。1月の大阪ミナミの寒空の下、6月の再開を約して別れました。

 ところで、この講で何度か登場しているアドラーですが彼はこう言っています。「あらゆる人の悩みは対人関係の問題に帰結します。自分はどのような人間でありたいか、と考える際には、必ず周囲の目を気にしているのです」(小倉広著、アドラー人生に革命が起きる100の言葉より)100%ではないにしてもだいだいその通りだと思います。人間は一人では生きていけませんから、自分の言動が相手にどうとられるかを意識するのは普通のことで、反対に相手がどう思うとも構わない、自分は言いたいことを言い、やりたいことをやるというのでは、まともな社会生活を送ることは難しいでしょう。ところが昨今の自己啓発本には、他人を気にするな、他人がどう思おうとも我が道をすすめ的なものがたくさん見受けられます。そもそも我が道を進むということは、他人の協力なくして絶対にありえないことです。どんな時でも、他への配慮を忘れてはいけないと思います。しかし、そうは思っていても私など凡夫の域から出ることのできないものにとっては、ついついそれを忘れ、配慮を欠いた言動で他を傷つけてしまうことがあります。そして、それは私の性格からくるのもですが、同じくアドラーは性格のことを“ライフスタイル”と名付けそれはいつでも変えることが出来ると言っています。同本ではこう記されています「ライフスタイルとは生き方のクセであり、どのように行動すればうまくいくかという信念である。・・中略・・そしてそれは自分の意思で決めたものだから、いつでも変えることが可能だ」私たちは性格などなかなか変えられるものではない、と思っています。しかしアドラーの言うように自分たちの性格が、生まれつきのもではなく、生まれた後、自分の意思で決めたのであれば、変えることは可能となります。そして、その性格がどう行動すれば自分は上手くいくか、という計らいの心からだけで創られたものとしたなら、それは畢竟、他との摩擦から逃れることは出来なくなるでしょう。私たちは生まれてきたものの使命として、この性格(ライフスタイル)を、より良い方向に変えていく努力を怠ってはいけないと思います。これは性格だから、しょうがないという考え方は決して持ってはいけない、今はそう考えるようになりました。

| 17年02月03日

社長のひとり言

~大晦日に思う~

2016年12月

 庭の寒椿の花が咲き始めました。満開にはまだまだというのに、もうメジロのつがいが花の蜜をついばみにやってきます。寒椿の紅い花びらにメジロの淡い緑がつつまれていきます。心和ませてくれる一瞬の風光です。  

今年もあともう僅か、いろんなことがありました。楽しかったこと、苦しかったこと、おかしかったこと、つらかったこと、悲しかったこと、うれしかったこと、しんどかったこと、くやしかったこと、感動したこと、驚いたこと、本当にいろいろありました。でも、終わってみれば家族も、会社の人もみんな大きな病気や事故に会うこともなく、健康のうちに終われそうです。本当に有難いことです。そして忘年会でたらふく飲んで、翌日、二日酔い、もう酒は飲まない、と幸せな嘘をついている私などは、まさに幸福の極みと言えるでしょう。

ところが、新聞やニュースでは毎日のように殺人事件や悲惨なテロ、戦争の惨禍などを伝えています。いまこの瞬間にも、罪のない人々がテロや戦争の犠牲になって死んでいきます。なんと恐ろしいことでしょう。そしてそれは私たちの国、日本でも70数年前に起こりました。戦争の惨禍で何百万人もの人が命を落としました。亡くなった母は戦時中と戦後の食べ物のないことの話をよくしていました。ご飯粒を粗末にすると目がつぶれるよ、と教えられ私は育ちました。しかし、その私は今、しゃもじに付いたご飯粒を食べることなく放置し、最後はバリバリになり捨てています。罰当たりなことです。そうです。私たち(?)は罰当たりです。平和であること、命があること、健康であること、家族がいること、仕事があること、食べられることに何一つ感謝せず、やるべきことをやらず、思い通りにならないと不満を口にし、他責にするのです。凡夫である私はその代表であり、言行不一致の典型です。反省し、改めなくては生まれてきた意味がありません。

今、世界中で起こっている不幸な出来事に対し、私は何もできません。ただ同情し、自分に起こらなくてよかったとエゴむき出しの幸福感に浸ってしまうだけです。こんな自分が時々嫌になります。世界の不幸を口にし、自分の周りを自分の思い通りにしようとする、その作為的エゴにも嫌悪します。仏教では、自分のものなど何一つない、私の身体、私の家族、私の家、という考え方は罪である、と説きます。考えてみればそうかもしれません。何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいくのですから、この世で得たモノ(財産や地位)などたいした価値などないのかもしれません。ならば自分の思い通りにしたいということも、意味のないことで罪と言えるのでしょうか。凡夫の私にはよく分かりません。ただ自分の○○とか、私の○○という観念を出来るだけ捨て、私たちの○○、あなたの○○、あなた達の○○という気持ちを持ち続け行動すれば、ひょっとすると少はましな生き方が出来るのではないかと思います。失敗ばかりで反省すべきことの多い一年でした。未熟者ですが来年は、もっと精進し言行一致を目指します。応援して下さいね。

| 17年01月06日

社長のひとり言

~悩み~

2016年11月

 釈尊は“人生は苦である”と言われ生老病死の四つを挙げられました。そして人間はその苦に向かって立ち向かうことによって成長し、生きる喜びを得られる、したがって苦は喜びであると、以前この講で記しました。飯田先生も「思い通りにならないことこそがこの世で最も価値あることだ」と言われています。しかし、その理屈は分かっていても、それでも人間は悩み苦しみ続けます。この講では、苦や、思い通りにならないことを分かりやすく“悩み”と置き換えます。人間は生老病死で悩み続けます。私もそうです。みんなそうです。

 赤ちゃんはともかく、人間は物心ついた時から悩み始めます。私の初めての悩みは、何歳の時かは覚えていませんが、お寝しょするのではないかという恐怖であったように思います。そこから始まって幼稚園ではいじめっ子に悩み、小学校では学校に行くことで悩み、中学ではニキビと近視と進学(高校受験に失敗したらどうしよう)で悩み、高校では成績(勉強についていけない)で悩み、大学ではなんと暇で悩んでいました。今考えると、だれもがそうでしょうが、本当につまらないことで悩んでいたものです。しかし、悩みは大人になっても尽きることはありません。大人になればなるほど、その社会的責任と比例して、悩みも大きくなるものです。私の場合、社会人となってからは上司との人間関係、仕事上の重責と失敗、結婚してからは娘の病気、断続的な金欠病と、数え上げたらきりがありません。

そして、何を思ったか経営者になりました。経営者としての悩みはそれまでの悩みとは比較になりません。社長となって21年が過ぎましたが、今振り返っても悩むことのない日は一日たりともありませんでした。しかし60年以上も悩んでいると、色々と学び、悩みに対する処方も身に付いてきます。それは、まず第一に、悩みを悩みと言わずに、“課題”と置き換えることです。そして今の課題をすべて紙に書き出します。次にその課題がうまく解決できなかった時の、予想される最悪の事態を書きます。人間が成長するためには負荷が必要です。その負荷が悩みとなって現れるのですが、それは挑戦し解決すべき課題なのです。課題をすべて書き出し、最悪の結末をも紙に書き出せば、もうほとんど課題は克服、解決したようなものです。頭の中であれやこれやと考えていたら、5つしかない課題が10にも20にも感じられて混乱します。紙に書けば5つの課題は5つより増えることはありません。頭の中で考えていた最悪の事態は恐怖ですが、紙に書いた最悪の事態は、恐怖ではありません。世間によくあることで、たいしたことではないなあ、と思うようになります。実際たいしたことではないのです。そもそも悩み(課題)とは未来への不安です。しかし人間には明日生きているという保証はありません。ですから明日の心配は必要ありません。そして、ひょっとしたら来ないかもしれない明日のために、今日一日、今という瞬間を悔いの無いように精一杯生きればいいのです。今日一日が生きられたら、これに勝る幸せはありません。         

最後に江戸時代の禅僧、良寛の言葉を記して終わります。「しかし災難に逢う時節には災難に逢うがよく候(そうろう)。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」これは良寛が越後三条で大地震にあった時、友人に宛てた返信の手紙の一節です。

| 16年12月03日

~損得~

~損得~

2016年10月

 最近、今まで見もしなかった新聞の死亡欄をなぜかよく見るようになってきました。そして恥ずべきことですが、90歳代の死亡記事にはホッとし、50歳代のそれには不安を感じるという相変わらずの煩悩自我から抜け出せません。でもやはり年のせいなのでしょう。死を意識する年齢になってきたことだけは確かだと思います。妻との会話でも、どちらが先に逝くかとか、病気や事故で植物状態(自力で呼吸や食事ができない状態と勝手に定義しています)になった時は、延命治療はしないでおこう、とかのことがよく話題になります。

 仏教本では不生不滅の言葉に代表されるように、生死(しょうじ)について多く語られています。私は8年前に飯田先生の著書をきっかけに、以来ずっと“生まれ変わり”を信じてきましたし、今も信じています。ところが仏教では生も死も本来区別はない、だから生じもしなければ滅しもしない、というふうに教えます。お坊さんには怒られるかもしれませんが、私はどちらも同じようなことだと考えています。私にはどちらも救いです。

 人間は何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでゆくという厳然たる事実があるのにもかかわらず、なぜかものを持ちたがる性質があります。素人考えですが、きっと本能に飢えることへの危機意識があり、そのようにさせるのでしょう。現に地球上のいたる所でその日の食事に事欠く人々が大勢います。だから飢えに備えて、たくさん持っておきたい、という心理が働くのは自然なことなのかもしれません。そして、その意識が段々と高じて、贅沢な暮らしを渇望するということになるのでしょう。だれでも貧乏よりは金持ちがいい、と考えます。その結果、金持ちになることを人生の目標とする人が増えてきます。決して悪いこととは思いませんが、やり方を間違えると人生は不幸ことになる可能性があります。つまりお金を人生の目標としてしまう生き方は、結局のところ、いつも損得しか考えないという生き方に陥ってしまうのです。何かをしたり、何かをする前に、いつもその見返りを期待し計算するのです。そして、やったことに対して期待していた対価や見返りがないと失望します。イヤになります。純粋な商いであれば、正当な対価を求めることは当然ですが、多くの人がそのビジネスの損得勘定を人生全体にまで拡大してしまうのです。家庭や友人・恋人関係や地域関係にまで拡げてしまいます。これは間違いです。(ビジネスで得られる対価は、人の役にたった成果であり、真摯でたゆまぬ努力の結果です。決して放逸な経営、怠惰な労働で得られるものではありません)その結果、家庭や職場の人間関係、隣人知人関係がギクシャクするのです。さらに言うと、人は今まで持っていたものを失うということに強い不安を覚えます。そしてその持っていたものを失うまいと、また損得勘定のみで行動します。しかし、その失おうとするものを、持っていなかったときは、何の不安もありませんでした。あったのは、持ちたいという希望ではなかったかと思います。

人間は必ず死にます。ならば悔いなく生き、悔いなく死んでいく道とは一体なんであろうか、ということを、それぞれが真摯に考えていく必要があると思います。少なくともこれだけは言えます。人間は損得のみに縛られ、ものを持つために生まれてきたのではない、ということです。生きる為に持つのであって、持つために生きるのではありません。

| 16年10月15日

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